中卒から世界で活躍する作詞作曲家になった岡嶋かな多さん
『toi-toi(拒食症「どうして誰かの価値観にとらわれる?」)(2026年9月3日)』で金子浩子さんとの対話に参加する岡嶋かな多さんは、BTSやTWICE、Snow Manなどへ楽曲を提供してきた作詞作曲家・音楽プロデューサーです。高校へ進まず15歳で音楽の道を選びながら、すぐ成功したわけではありません。仮歌1曲2000円、CDショップでのアルバイト、そしてスウェーデンで訪れた大きな転機までをたどります。
この記事でわかること
- 岡嶋かな多さんが高校へ進学しなかった理由
- 仮歌・アルバイト生活から作詞家になった経緯
- スウェーデンのコライトが転機になった理由
- BTSなど世界的アーティストへ楽曲提供する現在
岡嶋かな多さんは中卒で15歳から音楽の道へ進んだ

(出典:Billboard JAPAN「わたしたちと音楽 Vol.65」)
岡嶋かな多さんは、一般的な高校進学の道を選ばず、中学校卒業後の15歳で音楽スクールへ進みました。
高校に行けなかったのではなく、「音楽の道へ進むと決めているのに、なぜ高校へ行かなければならないのか」と考え、自分で音楽を選んだことを明かしています。
当時掲げていた目標は、かなり大きなものでした。
17歳で武道館に立つこと。
ところが、入った音楽スクールには20代の生徒が多く、同年代はほとんどいませんでした。専門学校だと思って入学したものの、実際には違っていたことも後から知ります。授業数も想像より少なく、練習とアルバイト中心の毎日になりました。
同級生たちが高校生活を送る一方、自分には目に見える結果がない。
かなり思い切った進路を選んだ岡嶋さんですが、最初から「自分の選択は正しかった」と自信を持てていたわけではありません。
むしろ早い段階から、自分の決断への迷いや焦りを経験していました。
18歳から23歳まで渋谷のCDショップでアルバイトを続けた
「中卒で音楽の世界へ」という経歴だけを見ると、そのまま若くしてプロになったようにも感じます。
実際は違います。
岡嶋さんは18歳から23歳まで約6年間、渋谷のCDショップでアルバイトをしていました。
バンドやシンガーソングライターとして活動し、代々木公園で路上ライブも続けていましたが、音楽だけでは生活できませんでした。
周囲では同世代が大学へ進み、やがて就職活動を始めます。
一方の岡嶋さんは、音楽家としてまだ大きな結果を残せていない。
15歳で高校進学とは違う道を選んだため、「普通の進路へ戻る」という選択肢も簡単ではありませんでした。
この時期を知ると、現在の「世界で活躍するヒットメーカー」という姿との距離の大きさが分かります。
20歳ごろの「仮歌1曲2000円」が裏方への入口になった
大きな転機になったのが、音楽スクール時代の先輩から紹介された「仮歌」の仕事でした。
仮歌とは、作曲家がレコード会社やアーティストへ楽曲を提案するとき、完成前の曲をイメージできるよう仮の歌声を入れる仕事です。
岡嶋さんは20歳ごろから、この仕事を始めました。
さらに仮の歌詞を作る「仮詞」も任されるようになります。
当初のギャラは1曲2000円ほど。交通費を払えばほとんど残らない金額でした。
ところが、この仮詞が少しずつ評価されます。
仮で書いたはずの歌詞が、そのまま正式採用されることも出てきました。
歌手として前に出るために始めた音楽活動から、思いもしなかった「人のために歌詞を書く仕事」が開けていったのです。
21歳でSowelu「to YOU」を手がけ作詞家デビュー
仮歌や仮詞を続けた先で、岡嶋さんは21歳のときに作詞家として大きな一歩を踏み出します。
手がけたのがSowelu「to YOU」でした。
印象的なのは、その曲と初めて出会った場所です。
CDショップのアルバイトへ向かう途中、渋谷スクランブル交差点に立っていると、勤務先の大型画面から自分が関わった作品が流れました。
ただし、ここでアルバイト生活が終わったわけではありません。
作詞家として仕事が始まってからも約3年間、CDショップで働き続けています。
朝から夕方まで店で働き、その後レコーディングスタジオへ行って仮歌を録音。
明け方近くに帰ってコンペ用の歌詞を書き、またアルバイトへ向かう。
週末には路上ライブもしていました。
現在の実績だけでは見えにくい、かなり長い下積み期間です。
多いときには年間500曲ほどコンペ用の歌詞を書いた
岡嶋さんの仕事が増えた背景には、圧倒的な制作量もありました。
楽曲コンペに参加するようになると、多い時期には年間500曲ほどの歌詞を書いていたと語っています。
音楽の世界の「コンペ」とは、アーティストが次に歌う曲などを決めるため、多くの作家から候補曲を集めて選ぶ仕組みです。
つまり500曲書いたから500曲採用されるわけではありません。
落選する作品の方が圧倒的に多くなります。
それでも書く。
また落ちても書く。
この繰り返しの中で、自分が前に立って歌うこと以上に、作詞・作曲やボーカルディレクションを求められていることに岡嶋さん自身が気づいていきました。
「何になりたいか」と「何を求められているか」が、初めて結び付き始めた時期ともいえます。
安室奈美恵への楽曲提供で名前が広がった
2009年には、安室奈美恵さんのアルバムに岡嶋さんの歌詞が採用されます。
これをきっかけに、音楽業界で名前が徐々に知られるようになりました。
しかし、ここでも葛藤が残りました。
岡嶋さんは15歳から、自分自身がステージへ立つアーティストを目指していました。
ところが実際に高く評価されたのは、作詞や作曲という裏方の仕事です。
「表に立ちたい自分」と「裏方として求められる自分」。
どちらを選ぶかを迷っていた時期に、後のキャリアを決定づける海外からの誘いが届きます。
スウェーデンのライティングキャンプで「100%裏方でもいい」と変わった
岡嶋さんにとって決定的だったのがスウェーデンでした。
海外の作曲家たちと一緒に楽曲を作る「ライティングキャンプ」に参加したのです。
それまでの岡嶋さんは、自分1人で考え、自分を追い込みながら曲を書く制作スタイルでした。
ライティングキャンプでは違います。
世界各国から集まった作詞家、作曲家、アーティストがグループを組み、その場でアイデアを出し合って1曲を作ります。
岡嶋さんは、その制作方法を「雷に打たれたような楽しさ」と表現しています。
そこで初めて、
「こんなに楽しいことを毎日できるなら、100%裏方でもいい」
と考えるようになりました。
15歳から抱えてきた「自分が歌手として成功しなければ」という価値観が、大きく変わった瞬間でした。
BTS「Crystal Snow」は世界17か国で1位を獲得
裏方で生きる方向が定まってから、活動範囲は日本を大きく越えていきます。
岡嶋さんはスウェーデンの音楽事務所Roasting Houseと契約し、一時期ヨーロッパへ活動拠点を移しました。
その後もアメリカ、イギリス、スウェーデン、コロンビア、インド、中国などの作家やアーティストと楽曲制作を続けています。
代表的な仕事の1つが、BTSの「Crystal Snow」です。
作詞・作曲を手がけた同曲は世界17か国で1位を獲得しました。
三浦大知さんの「EXCITE」では、2017年の日本レコード大賞・優秀作品賞を受賞。
ほかにもTWICE、Snow Man、Ado、aespa、SixTONES、LE SSERAFIM、BABYMETALなど、国内外の多数のアーティストへ楽曲を提供しています。
参加した作品は500曲以上に達しています。
ヒット曲を作るとき最も大切にしているのは「ヒアリング」
これだけ多くのアーティストへ曲を書く場合、「売れる歌詞の型」があるようにも思えます。
岡嶋さんが重視しているのは、むしろ相手の話を聞くことです。
アーティストが最近何を考えているのか。
今回の楽曲で何を表現したいのか。
レーベルやマネジメントは、そのアーティストをどう見せたいのか。
こうしたことを丁寧にヒアリングしてから制作すると語っています。
自分が書きたいものを押し出すだけではなく、相手自身の個性や世界観をどう楽曲へ変えるかを考える仕事なのです。
岡嶋さんが「作詞家」だけでなく「音楽プロデューサー」と呼ばれる理由も、ここにあります。
2児の母になり仕事の仕方も変わった
現在の岡嶋さんは2児の母でもあります。
妊娠したときには、仕事が減ることを心配し、周囲に約8か月まで妊娠を知らせず働いていたことを明かしています。
出産がコロナ禍と重なり、音楽制作や会議がオンライン化したことで、出産から約1週間半で仕事へ復帰しました。
その後は働き方にも変化が生まれています。
以前は土日や連休も関係なく仕事をしていましたが、子どもが保育園へ通うようになってからは、土日は自分も休む。
家族との時間によって、仕事に集中する時間と離れる時間を切り替えられるようになったと話しています。
若いころは「止まったら終わる」と感じるほど仕事へ向かっていた人が、家族を持ったことで別の働き方を見つけています。
『夢の叶え方はひとつじゃない』で中高生に伝えていること
岡嶋さんは、自身の歩みを中高生へ向けた本『夢の叶え方はひとつじゃない 私は、中卒作詞作曲家』にもまとめています。
2023年1月24日にPHP研究所から発売され、価格は1430円です。
本のタイトルそのものが、岡嶋さんの人生をよく表しています。
高校へ行かず音楽を選んだ。
それでも17歳で武道館という最初の夢は実現しなかった。
歌手として苦戦した。
その代わり、仮歌や仮詞から作詞家という仕事に出会った。
さらにスウェーデンへ渡り、アーティストとして前へ出ることだけが音楽家の成功ではないと知った。
最初に想像していたルートとは大きく違います。
それでも結果として、BTSをはじめ世界的なアーティストへ楽曲を書く仕事へたどり着きました。
「誰かの価値観にとらわれる」というテーマと重ねて見ると、岡嶋かな多さんの歩みで興味深いのは、最初に自分で決めた「成功の形」にさえ、最後まで縛られる必要はなかったことです。
17歳で武道館に立つ歌手になることだけが正解ではなかった。
高校、大学、就職という道だけが正解でもなかった。
そして、表に立つことだけが音楽家でもなかった。
現在の岡嶋さんは、海外のクリエイターと国境を越えて楽曲を作り、子育てをしながら500曲以上の作品に携わっています。
15歳で選んだ道をそのまま走り続けたというより、何度も「自分にとっての正解」を作り直した先に現在がある人物です。


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