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忠犬ハチ公を有名にした斎藤弘吉とは|日本犬保存会と1932年の新聞記事に隠れた物語【歴史探偵「犬と日本人」関連】

人物

忠犬ハチ公を世に広めた斎藤弘吉と日本犬保存運動

渋谷駅前の象徴として世界的に知られるハチ公ですが、その存在を全国へ広めた人物まで知る人は多くありません。『歴史探偵(犬と日本人 はるかなる旅)(2026年9月2日)』からさらに掘り下げたいのが、日本犬保存会の設立に携わった斎藤弘吉です。日本犬が姿を消しかけていた時代、斎藤はなぜハチ公に目を留めたのか。新聞掲載、日本犬保存運動、ハチ公像へとつながる意外な関係をたどります。

この記事でわかること

  • 忠犬ハチ公を全国に知らしめた人物
  • 斎藤弘吉がハチ公に目を留めた理由
  • ハチ公と日本犬保存運動のつながり
  • 現在まで続く日本犬保存会との関係

ハチ公が全国的に知られるきっかけを作ったのは斎藤弘吉

フォト日記 | 区政情報 | 渋谷区ポータル

(出典:渋谷区「しぶやフォト日記」)

渋谷駅で主人を待ち続けたハチ公が全国的に知られるようになった背景には、斎藤弘吉(さいとうひろきち)という人物がいました。

斎藤は日本犬の保護や研究に力を注ぎ、1928年に設立された日本犬保存会の中心人物となった研究者です。

当時、渋谷駅周辺にやって来ていたハチを知り、その境遇と秋田犬としての価値に注目しました。

斎藤の働きかけをきっかけに、1932年10月4日の東京朝日新聞へハチを取り上げた「いとしや老犬物語」が掲載されます。

これを境に、それまで駅周辺で邪魔者のように扱われることもあったハチは、一気に有名になりました。渋谷区も、ハチ公が忠犬として広く知られるきっかけを作った人物が斎藤弘吉だったと紹介しています。

現在では誰もが知る「忠犬ハチ公」。

その物語の裏には、1頭の犬を見つけ、その価値を社会に伝えた人物がいたのです。

斎藤弘吉が動いた背景には日本犬そのものの危機があった

斎藤が単に「かわいそうな犬を新聞に紹介した人」だったと考えると、この話の重要な部分を見落としてしまいます。

当時は、日本犬そのものが危機に直面していました。

明治以降、日本には多くの洋犬が入ってきます。

在来犬との交雑も進み、昔から各地域で飼われていた日本犬の姿が次第に少なくなりました。

こうした状況の中、1928年に日本犬保存会が設立されます。

1932年には会誌「日本犬」を創刊し、犬籍簿の整備や血統書の発行も開始。さらに同年、東京・銀座松屋屋上で第1回日本犬全国展覧会を開催しました。

斎藤自身も後年、自分が日本犬保存会を作り、日本犬の調査や研究を始めたと記しています。

つまり斎藤が見ていたのは、ハチ1頭だけではありません。

「このままでは日本古来の犬がいなくなってしまう」

という大きな問題でした。

ハチ公は日本犬保存運動にとっても重要な犬だった

ハチは秋田県大館で生まれた秋田犬です。

現在、秋田犬は国の天然記念物として知られていますが、日本犬の保存がまだ十分に進んでいなかった昭和初期には、純粋な日本犬を探すこと自体が重要な活動でした。

そんな中、東京の中心部に純粋な秋田犬の特徴を持ったハチがいた。

日本犬を調査していた斎藤にとって、見過ごせない存在だったことが分かります。

さらに驚くのは、1932年に行われた第1回日本犬全国展覧会にハチ公が特別招待犬として参加していたことです。

ハチ公というと、

「亡くなった主人を駅で待ち続けた犬」

という部分だけが有名です。

しかし当時は、日本犬の価値を広く知ってもらう象徴的な存在でもありました。

ハチ公の人気と日本犬保存運動は、別々の歴史ではなかったのです。

新聞掲載後にハチ公への扱いが一変した

1932年の記事が出る以前、ハチは現在のようなスターではありませんでした。

主人だった東京帝国大学教授の上野英三郎が1925年に急逝すると、ハチは別の家へ預けられます。

その後も渋谷駅周辺へ通っていましたが、野良犬と間違えられたり、追い払われたり、いたずらをされたりすることもありました。

ところが新聞で境遇が紹介されると状況が一変します。

ハチを見に来る人が増え、食べ物を持ってくる人まで現れるようになりました。

渋谷区のハチ公100年特集でも、1932年の記事掲載後に人々の接し方が変わり、ハチ公が大人気になった経緯が紹介されています。

今では「最初からみんなに大切にされていた犬」のように感じますが、実際にはそうではありません。

斎藤がハチの存在を伝えたことが、ハチ自身の晩年まで大きく変えたことになります。

ハチ公は毎日主人を渋谷駅まで送っていたわけではなかった

ハチ公には、広く知られている物語と研究から分かってきた事実に少し違いがあります。

特に興味深いのが、

「上野博士を毎朝渋谷駅まで送り、夕方迎えに行った」

という有名な話です。

東京大学によると、上野博士が勤務していた東京帝国大学農学部は当時、現在の東京大学駒場キャンパス付近にありました。

自宅も現在の松濤付近。

博士は大学まで徒歩で通勤しており、毎日の通勤に渋谷駅を利用していたわけではありません。

ハチは大学まで送り迎えしていたと考えられています。

一方、博士が出張などで鉄道を利用するときには渋谷駅を使っていました。博士の死後、ハチが渋谷駅へ通うようになったことから、後世に「毎日駅まで送り迎えしていた」という物語が定着していったとされています。

だからといって、ハチと上野博士の関係が薄かったわけではありません。

むしろ斎藤自身は、ハチの行動を単なる「恩返し」と見るよりも、大切にしてくれた主人への純粋な愛情だったと考えていました。

この違いを知ると、ハチ公の話がさらに興味深くなります。

生きているハチ公自身が初代銅像の除幕式に参加した

ハチ公の記事が掲載されたのは1932年。

そのわずか2年後の1934年4月、渋谷駅前に初代忠犬ハチ公像が建てられました。

ここには現在の銅像とは大きな違いがあります。

初代像が完成したとき、ハチ公本人がまだ生きていたのです。

除幕式にはハチ公自身も参加しています。

犬が存命中に自分の銅像の除幕式へ参加するという、かなり珍しい出来事でした。

ハチ公は翌1935年3月8日に亡くなります。

しかし初代像もそのまま残ったわけではありません。

戦時中の金属回収によって供出され、戦後の1948年に2代目の像が完成しました。

現在、渋谷駅前に立っているのはこちらの2代目です。

「ハチ公像」という1つの銅像にも、日本犬保存、戦争、戦後復興という日本の歴史が重なっています。

日本犬保存会は現在も柴犬など6犬種を守っている

斎藤らが始めた保存活動は、約100年後の現在まで続いています。

日本犬保存会は、天然記念物に指定された日本犬を、

  • 柴犬
  • 紀州犬
  • 四国犬
  • 甲斐犬
  • 北海道犬
  • 秋田犬

の6犬種に分類して保存しています。

1934年には「日本犬標準」が制定され、犬の大きさから小型・中型・大型という分類も整えられました。

さらに血統書の発行や展覧会、調査研究なども続いています。

そして今回の番組制作にも、日本犬保存会が協力しています。

日本犬保存会は放送告知の中で、明治以降の日本犬、昭和の保存活動、石号の血統などについて番組制作へ協力したことを明らかにしています。

石号から現代の柴犬へつながる血統も、こうした保存運動の延長線上にあります。

ハチ公が残したものは「忠犬」という物語だけではない

渋谷駅で主人を待つ犬。

それだけでも十分に印象的な物語です。

しかし背景をたどると、ハチ公はもっと大きな日本犬の歴史とつながっています。

日本犬が消えかけていた昭和初期。

その保存に動いた斎藤弘吉が渋谷でハチを知る。

1932年、新聞を通じて全国へ知られる。

同じ年、日本犬保存会の第1回全国展覧会にも参加。

そして2年後には銅像まで建てられる。

偶然、渋谷駅に通っていた1頭の秋田犬と、日本犬を残そうとしていた人物が出会ったことで、現在まで続く巨大な物語が生まれました。

「忠犬ハチ公を有名にした人物は誰だったのか」まで知ると、斎藤弘吉と日本犬保存運動というもう1つの歴史が見えてきます。

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