古井昇空さんはIT系の仕事から東光院へ、事業失敗と失踪を経て人の最期に寄り添う僧侶に
神奈川県大磯町の東光院で、地域の人たちの暮らしから人生の最期まで支えている古井昇空(ふるい・しょうくう)さん。
2026年9月13日放送の『ザ・ノンフィクション 人生 最期までお付き合い 後編〜母と息子 残された時間〜』では、数々の人の最期を見届けてきた古井さんが、今度は余命1年を告げられた母・正代さんと「息子」として向き合う時間が描かれます。
古井さんの人生をたどると、最初から僧侶を目指していたわけではありません。
都心でIT系の仕事をしていた時代があり、その後は事業に失敗。借金を抱え、家族との連絡を約2年半絶った時期もありました。
そこから東光院と出会い、人の暮らしや死に深く関わる現在へとつながっています。
この記事でわかること
- 古井昇空さんがIT系の仕事から東光院へ進んだ経緯
- 20代の事業失敗と約2年半の失踪
- 母・正代さんとの関係と「生きていて良かった」という言葉
- 東光院で現在行っている葬送・見守り・地域活動
古井昇空の経歴|IT系の仕事から「僧侶となんでも屋」へ、東光院で最期まで寄り添う理由【ザ・ノンフィクション】
IT系の仕事から東光院の僧侶になるまで
古井昇空さんは1980年生まれ。東光院の公式サイトに掲載された本人の自己紹介によると、神戸で生まれ、広島で育ち、高校から埼玉へ移り、その後は東京都心でIT系の仕事をしていました。
つまり、寺に生まれてそのまま僧侶になった人物ではありません。
2014年の本人紹介では、その約4年前から東光院で修行していると記されています。時期からみると、2010年ごろには東光院との生活が始まっていたことになります。
古井さん自身を紹介する「おしまいDEATH!!!」のプロフィールでも、もともと寺や仏教とは縁のないところから東光院に居着いた人物と紹介されています。
現在もITやデザインの知識を持ち、いわゆる昔ながらの「お坊さん」だけでは収まらない経歴を持つ人です。
東光院に入った後は、地域行事への参加などを通して大磯とのつながりを深めていきました。
2018年には、当時37歳の古井さんと大澤曉空住職が中心となり、寺の客殿を地域に開放する「海近寺巣(うみちかてらす)」を運営していたことも報じられています。仏教図書館やバリアフリートイレ、授乳室なども備えた、寺でありながら地域の共有スペースという試みでした。
20代の事業失敗と借金から始まった2年半の失踪
古井さんの人生で大きな転機になったのが、20代で経験した事業の失敗です。
9月13日の『ザ・ノンフィクション』後編を紹介する番組情報では、古井さんは15歳で家を離れ、その後20代で事業に失敗。さらに、約2年半にわたって家族との連絡を絶っていたことが明らかになっています。
前編では、古井さん自身が借金を抱え、約2年半失踪していた過去を告白しました。
この場面は視聴者の注目度が76.7%まで上昇し、その回の最高値を記録しています。人の人生を支える現在の古井さんからは想像しにくい過去だったことが、大きな関心を集めました。
現在の古井さんだけを見ると、困っている人を放っておけず、一人暮らしの高齢者を訪ね、生活の相談に乗り、人が亡くなれば葬送まで担う人物です。
しかし、その背景には、自分自身も人生の行き場を失った時期がありました。
この「支える側になる前に、自分自身がどん底を経験していた」という点が、古井さんの経歴で非常に重要な部分です。
母・正代さんの「生きていて良かった」が変えた人生
失踪していた古井さんが家族のもとへ戻った時、母・正代さんが息子に掛けた言葉がありました。
「生きていて良かった」
正代さんは、責めるより先に、息子が生きて帰ってきたことを喜んだといいます。
正代さんは71歳。
脳性まひがあり、長年車椅子で生活しながら、古井さんを含む3人の子どもを育て、障害者運動にも尽力してきました。
古井さんにとっては、幼い頃から母の介助が日常でした。
一方で15歳で家を離れ、事業の失敗や失踪を経たことで、親子には長く離れていた時間もあります。
そんな母に、がんが見つかります。
告げられた余命は1年でした。
正代さんは抗がん剤治療を受けず、残された時間を自分らしく生きる道を選択。病状が進む中、古井さんは週に1度、大阪へ通うようになります。
普段は他人の人生の最期に付き添っている古井さんが、今度は自分の母親と向き合わなければならない。
9月13日の後編で最も大きな軸になるのが、この親子の時間です。
人の最期まで付き合う型破りな僧侶の仕事
古井さんが活動する東光院は、一般的に想像される寺院よりも、地域住民の生活へ深く入り込んでいます。
番組では古井さんを「執事」と紹介していますが、地域の公的・一次資料などでは僧侶、副住職として紹介されてきました。
東光院では、葬儀会社だけに任せるのではなく、
- ご遺体の搬送
- ご遺体の処置
- 死に化粧
- 遺影の準備
- 納棺
- 葬儀の進行
- 行政手続き
などまで僧侶が担っています。
そのため古井さんと大澤住職は、復元納棺師のもとで遺体の保全や修復、湯灌、死に化粧、納棺などの技術も学びました。
特徴的なのは、亡くなった後だけに関わるのではないことです。
元気な時から付き合い、一人暮らしになれば見守り、介護が必要になれば暮らしを支え、本人が望む生活をできるだけ続けられるよう手伝う。
そして最期が来れば、その人をよく知っている僧侶として見送ります。
東光院が「人生最期まで付き合う寺」と呼ばれる理由は、ここにあります。
東光院で始めた地域の居場所づくり
古井さんたちが力を入れているのは、葬送だけではありません。
2023年には東光院の隣にある空き家を活用し、多世代食堂「おむすび」を始めました。
コンセプトは、みんなで作り、みんなで食べ、みんなで片づける「地域の食卓」です。
一人で食事をすることが多い高齢者や子どもたちなどが集まり、同じ食卓を囲みます。
単なる「子ども食堂」ではなく、年齢や立場を問わず人が集まれる場所として作られているのが特徴です。
さらに東光院では「暮らしの保健室 安養」も開設。
健康、介護、生活上の不安について、専門職に予約なしで相談できる場所です。家族がうつと診断され相談先に困った住民の声をきっかけに、家族会が生まれた事例も紹介されています。
古井さんは、最初から大きな社会課題を解決しようとしたのではなく、目の前にいる人の困りごとを一つずつ見ていく中で活動が増えてきたという趣旨の説明をしています。
寺を「亡くなった時だけ行く場所」ではなく、生きている間から頼れる場所にする。
それが現在の東光院の大きな特徴になっています。
余命1年の母を自ら見送る息子としての時間
他人の死には何度も向き合ってきた古井さんですが、母の死は同じではありません。
正代さんは余命1年を告げられた後、自分の人生の締めくくりについても自ら準備を進めました。
葬儀で使う写真を自分で選び、葬儀で流すためのメッセージも撮影しています。
日頃から人の死に寄り添ってきた息子だからといって、母親との別れまで冷静に受け止められるわけではありません。
むしろ古井さんには、15歳で家を離れたこと、事業に失敗したこと、2年半にわたり家族と連絡を絶ったことなど、母と離れていた時間があります。
だからこそ、母から掛けられた「生きていて良かった」という言葉の重みも大きくなります。
人の最期に寄り添うことを仕事にしてきた古井さんが、僧侶ではなく一人の息子として母にどう向き合うのか。
ここが『ザ・ノンフィクション』後編の中心です。
大磯で続ける現在の活動
古井さんの現在の活動は「僧侶」という一言だけでは説明しきれません。
東光院を拠点に、
- 地域住民の生活相談
- 一人暮らしの高齢者の見守り
- 葬送や納棺
- 多世代食堂「おむすび」
- 暮らしの保健室
- 地域の居場所づくり
- 福祉関係者との連携
などに関わっています。
2014年の古井さんは、自身を「大磯民としてまだまだ駆け出し」と記していました。
それから10年以上。
現在は行政や社会福祉関係の資料でも、東光院の地域活動を担う人物として古井さんの名前が登場するようになっています。
IT系の仕事をしていた青年が、事業失敗と失踪を経験し、寺にたどり着き、人の暮らしと死に寄り添う側へ回った。
古井さんの現在の仕事は、その人生の変化と切り離して見ることができません。
まとめ
古井昇空さんは1980年生まれで、神戸で生まれ、広島で育ち、高校から埼玉へ移り、その後は都心でIT系の仕事をしていました。
20代では事業に失敗し、借金を抱え、約2年半にわたって家族との連絡を絶った時期を経験します。
そこから東光院へたどり着き、現在は人々の暮らしから人生の最期まで関わる僧侶として活動しています。
そして古井さんがどん底から戻ってきた時、母・正代さんが掛けたのが「生きていて良かった」という言葉でした。
その母に余命1年が告げられます。
多くの人を見送ってきた古井さんにとって、今度の相手は自分を育て、失踪から戻った自分を受け入れてくれた母親です。
古井さんの「現在」だけでなく、なぜこの人が人の生と死にここまで深く関わるようになったのかまでたどると、『ザ・ノンフィクション』で描かれる姿がより立体的に見えてきます。
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