記事内には広告が含まれています。

【火曜の良純孝太郎】良純&宮川大輔が東京・自由が丘を大冒険! 自由が丘の歩き方と成り立ちを深掘り、地名の由来と石原慎太郎ゆかりの名店に迫る|2026年2月10日★

火曜の良純孝太郎

自由が丘は「谷なのに丘」?衾村から人気タウンになるまで

このページでは『火曜の良純孝太郎(2026年2月10日放送)』の内容を分かりやすくまとめています。

ロケの舞台になったのは、東京を代表するおしゃれタウン 自由が丘 です。今では「住みたい街ランキング」の常連で、カフェやスイーツ店が立ち並ぶ人気エリアですが、もともとは九品仏川が流れる「谷底」の農村でした。江戸時代から昭和初期までは、衾村(ふすまむら)大字谷畑と呼ばれ、田んぼや竹やぶ、大根畑が広がる寒村だったと伝えられています。

転機となったのが 東急東横線 の開通です。1927年に渋谷〜丸子多摩川間が開業し、当初の駅名は「九品仏」でした。その後、大井町線も開通し、駅名の変更が必要になった際、地元で自由主義教育を掲げていた 自由ヶ丘学園 の名にちなんで「自由ヶ丘駅」と名付けられます。これが現在の地名「自由が丘」の始まりです。

番組では「谷なのに丘?」という素朴な疑問をきっかけに、この地形の謎をたどります。九品仏浄真寺の池を源流とする川が谷を刻み、その谷底が田畑として利用されてきたこと、そして呑川と九品仏川の間にある谷間から「谷畑」という地名が生まれたことなど、現在の洗練された街並みからは想像しにくい素顔が次々と紹介されました。

今、私たちが「おしゃれな坂道の街」として歩いている自由が丘のアップダウンは、こうした谷と台地が入り組んだ地形の名残です。街歩きをするとき、坂を上り下りするたびに「ここは昔、田んぼだったのかな」と想像しながら歩くと、少し違った景色が見えてきます。

岡田家の大門と伏見稲荷のお社 農村時代の面影を訪ねて

最初に訪ねたのは、自由が丘商店街振興組合の岡田さんの自宅。高級住宅街のど真ん中に、白壁に囲まれた大きな屋敷が現れます。白壁はおよそ70メートルも続き、門構えも堂々たるもの。かつてこの一帯が農村だった頃から続く、20代以上の農家の家系だと紹介されました。

巨大な門は、江戸時代に武士が馬に乗ったまま出入りできるよう設けられたもので、地元の名主クラスの家にだけ許された格式の高い造りです。住民は横の小さな扉から出入りし、真ん中の大門は武士専用。番組でも、そのスケールと格式に出演者たちが圧倒されていました。

屋敷の敷地内には、 京都府伏見稲荷大社 から勧請されたお社も建てられていました。全国にある稲荷神社の多くは伏見稲荷から分霊されたもので、商売繁盛や五穀豊穣の神様として信仰されています。自由が丘という都会の真ん中に、今も農村時代の信仰の痕跡が静かに残っているのが印象的です。

さらに、ロケで立ち寄った 中根公園 は、もともと岡田家の土地だった場所。岡田家が目黒区に土地を寄贈し、公園として整備されました。今では親子連れや子どもたちの遊び場になっていますが、背景を知ると「名主が地域に開いた庭」という見え方もしてきます。

自由が丘は、ランキングで人気を集める「憧れの街」であると同時に、地元の名主たちが土地を守り、時には公園として開放しながら育ててきた街でもあるのだと分かります。

自由が丘デパートとキッチンカントリー 昭和モダンの香り

次に一行が向かったのは、駅前にそびえる 自由が丘デパート。ここは1953年創業で、「デパート」という名称をビル型の専門店集合施設につけた、日本でも非常に早い例といわれています。戦後の闇市から発展した歴史を持ち、昭和20〜30年代には屋上にローラースケート場もあった“流行の最先端スポット”でした。

館内には、創業当時から続くテイクアウト専門の寿司店 すし処 桃山 も登場。良純さんの義理の母が「自由が丘デパートといえばここ!」と言って通っていた折詰寿司として紹介され、スタジオでも「懐かしい味」と感想が語られていました。

さらに番組が訪れたのが、自由が丘デパート3階にあるハンガリー料理の老舗 キッチンカントリー。東急自由が丘駅の目の前という好立地にあり、日本でも数少ないハンガリー料理専門店のひとつです。

ハンガリー料理といえば、パプリカをたっぷり使った グヤーシュスープ や、トロトロに煮込んだロールキャベツ「トルトット・カーポスタ」など、じっくり煮込む料理が定番。キッチンカントリーでも、グヤーシュやロールキャベツ、ボルシチなど、異国の家庭料理を思わせるメニューが並びます。

昭和の自由が丘でこうした「ハイカラな外国料理店」が生まれたのは、駅前に映画館が集まり、人が行き交う娯楽の中心地だったから。1950〜60年代には、自由が丘周辺だけで映画館が6館もあり、週末ごとにたくさんの若者や家族連れが訪れていました。番組でも、当時のにぎわいを語るエピソードが紹介され、今の静かなカフェ街からは想像できない“昭和の熱気”を感じさせてくれました。

熊野神社と栗山久次郎 三島由紀夫も歩いた“誕生の祖”の物語

街歩きの途中で訪ねた 熊野神社(目黒区自由が丘1-24-12) は、自由が丘一帯の鎮守様です。参道の木立の中には、「自由が丘誕生の祖」とも呼ばれる 栗山久次郎 の銅像が建っています。

栗山久次郎は、明治〜大正期にかけて碑衾村(ひぶすまむら)の村長を務めた人物で、のちに荏原郡会議員としても活躍しました。
特に重要なのが、旧来の地名「碑衾町大字衾」の一部を、地域の発展を願って 「碑衾町大字自由ヶ丘」 と改称する決断をしたことです。この命名こそが、現在の自由が丘という街の名前のベースになりました。

熊野神社には、自由が丘を愛した文豪 三島由紀夫 にまつわるエピソードも残っています。昭和31年の例大祭では、三島由紀夫がここの神輿を担いだと伝えられており、当時の自由が丘新聞にもその様子が記録されています。

番組では、自由が丘が「おしゃれなスイーツタウン」になるずっと前から、地域の人たちが祭りで集い、名主たちが駅の誘致や地名の改称に奔走してきた歴史が丁寧に紹介されました。

すずかけ通り沿いには、かつて 松田聖子 が手がけたショップ「フローレスセイコ」(のちの felicia club by Seiko Matsuda)がありました。開店当時は500メートルにも及ぶ長蛇の列ができたというエピソードもあり、自由が丘が“昭和〜平成のポップカルチャー”の発信地でもあったことが分かります。

街中には、アーティスト 藤元明 による現代アートの壁画が描かれた「自由が丘レノン・ストリート」や、東急の土地を目黒区が借りてJTが喫煙所を整備するなど、行政・企業・アーティストが一緒になって街づくりを進めてきた場所も登場。こうした風景は、自由が丘が単なる商業地ではなく、“住む人・訪れる人・作り手”が関わり続けてきた文化の街であることを物語っています。

自由が丘発祥のスイーツと老舗グルメ モンブラン・ナボナ・八沢川

番組の後半では、「自由が丘発祥の国民的スイーツ」が続々と登場しました。

ひとつめは、世界的にも知られるケーキの名前と街の名前を結びつけた 自由が丘モンブラン。モンブランは1933年に創業した老舗洋菓子店で、創業者の迫田千万億(さこだ ちまお)氏が山歩きとヨーロッパ旅行の経験を生かし、アルプスの名峰モンブランをイメージしたケーキを考案しました。

ヨーロッパの「モンテ・ビアンコ」というデザートをヒントに、日本人の口に合う甘さと食感に仕立て直したのが、日本初のモンブランケーキ。開店当初、洋菓子の認知度はまだ高くなかったため、迫田氏はあえてレシピを公開し、「作りたい職人は誰でも真似していい」というスタンスで広めていきました。おかげで、今では全国にモンブランケーキが広まりましたが、発祥の地は自由が丘なのです。

もうひとつの看板スイーツが、和菓子店 亀屋万年堂ナボナ。1938年創業の老舗で、ふんわりとしたブッセ生地にクリームを挟んだナボナは「お菓子のホームラン王」として知られ、プロ野球の 王貞治 がCMに出演したことでも有名になりました。

番組では、プロ野球選手・国松彰の妻の実家が亀屋万年堂だったことから、王貞治がCMに起用されたという縁も紹介。自由が丘発の銘菓が、スポーツ界とも意外なつながりを持っていることが分かります。

さらに、グルメ編で登場したのが、昭和30年創業の 蒲焼割烹 八沢川。自由が丘近くの奥沢にあるうなぎの名店で、作家であり政治家でもあった 石原慎太郎 の行きつけとして知られています。良純さんの家族も10年以上通っていることが、インタビューやメディアでたびたび語られてきました。

番組では、良純さんたちが「肝焼き八沢川風」や「松重」を味わいながら、父・慎太郎との思い出を振り返る場面も。自由が丘のグルメは、単に“おいしい店”というだけでなく、家族の歴史や昭和の文化人たちの物語とも深く結びついていることが伝わってきます。

料理教室とカルチャーの街へ 魚菜学園と九品仏川の暗渠が語るもの

ラストパートでは、自由が丘が「カルチャーの街」へと変わっていく過程が紹介されました。

昭和24年、この地で 田村魚菜 が開いたのが「自由が丘お料理塾」。のちに 魚菜学園 自由が丘お料理学校 となり、60年以上で延べ16万人以上の卒業生を送り出してきた料理教室です。魚菜学園は、家庭料理を基本から学べる学校として今も人気で、「美味しい料理は愛情から」という創設者のモットーが受け継がれています。

番組でも、ここが料理だけでなくダンスやフラワーアレンジメントなど、多彩なカルチャースクールの先駆けとなったことが語られました。自由が丘に“習い事文化”が根付いたのは、この学校の存在が大きかったと言えます。

一方で、カルチャーセンターが並ぶ通りは、もともと 九品仏川 が流れていた場所です。現在は暗渠となり、遊歩道のような縁道として整備されていますが、もとは水が流れる谷底でした。昭和49年に川にフタがされ、上を人が歩くスペースとして活用することで、現在のような落ち着いた街並みが生まれました。

東横線の開通翌年には、自由主義教育を掲げる 自由ヶ丘学園 もこの地に設立されます。ここは、黒柳徹子の自伝的小説『窓ぎわのトットちゃん』で知られる トモエ学園 の前身となった学校で、跡地には記念碑も設けられました(現在は再開発に伴い一時的に移設中)。

このように、自由が丘は
・農村の名主が土地を守り
・鉄道の開通で街が開かれ
・熊野神社や祭りがコミュニティを支え
・モンブランやナボナ、八沢川のような店が味の文化を育て
・魚菜学園やカルチャースクールが学びの場をつくり
という積み重ねで、今の「おしゃれタウン」へと育ってきました。

番組『火曜の良純孝太郎』は、観光ガイドには載りきらない自由が丘の深い歴史と、そこに生きる人々の物語を、街歩きの目線で丁寧に見せてくれました。自由が丘を訪れるときは、スイーツやショッピングだけでなく、谷底の地形や名主の屋敷、熊野神社の銅像にも少し目を向けてみると、街の見え方がぐっと豊かになるはずです。

 

コメント

タイトルとURLをコピーしました