丸木スマが73歳から絵筆を握り、戦後の画壇へ飛び込むまで
2026年10月4日放送のNHK Eテレ「日曜美術館 人生が、絵となる おばあちゃんアーティストの軌跡」で中心的に紹介されるのが、広島生まれの画家・丸木スマさんです。
スマさんが本格的に絵を描き始めたのは1948年、73歳のとき。それまで専門的な美術教育を受けた経験はなく、長年、船宿や農業を切り盛りしながら家族を支えてきた女性でした。
しかし絵筆を握ってから人生は大きく変わります。1956年に81歳で亡くなるまでに700点を超える作品を残し、日本美術院展にも入選。70代にして戦後の画壇へ登場しました。
この記事でわかること
- 丸木スマさんが73歳で絵を始めたきっかけ
- 原爆と夫の死を経験してから画家になるまで
- 日本美術院展へ入選した70代の画壇デビュー
- 2026年開催「丸木スマ展」の場所・料金・期間
丸木スマは73歳まで画家ではなかった

丸木スマさんは1875年1月2日、広島県安佐郡伴村、現在の広島市安佐南区に農家の長女として生まれました。
20歳のころ、飯室村の丸木金助さんと結婚。家業だった船宿を手伝いながら農業にも従事し、子どもたちを育てました。
長男が、後に「原爆の図」で知られる画家・丸木位里さんです。
スマさん自身は、この時点では画家ではありません。
日々の中心にあったのは家族、船宿、畑仕事でした。
1931年には広島市三滝町へ移住。70歳になる1945年まで、美術家として作品を発表した経歴はありませんでした。
73歳から700点を超える作品を描いたという数字が驚異的なのは、それ以前から何十年も絵を描き続けていた人ではないからです。
70歳で広島原爆を経験、翌年には夫を亡くした
スマさんの人生を語るうえで避けられないのが、1945年8月6日の広島への原爆投下です。
当時70歳だったスマさんは、爆心地から約2.5kmの自宅で被爆しました。
命は助かりましたが、翌1946年には夫を亡くします。
長年一緒に船宿や農業を支えてきた夫との別れを経験した後、人生は大きな転機を迎えます。
その背中を押したのが、長男の丸木位里さんと、その妻で画家の丸木俊さんでした。
俊さんら家族に勧められ、スマさんは1948年ごろから本格的に絵を描き始めます。73歳でした。
年齢を考えて趣味として少し絵を楽しむ、という範囲には収まりませんでした。
ここからスマさんは猛烈な勢いで描き始めます。
畑仕事をしてきた女性が花・猫・魚を生命力いっぱいに描いた
スマさんが題材にしたのは、長い生活の中で見続けてきた身近なものです。
花、野菜、鳥、猫、犬、魚、虫。
大きな歴史上の出来事や有名人ではなく、自分の周囲にいた「生きもの」を自由な構図と鮮やかな色で描きました。
作品の大きな特徴は、専門的な美術教育で身につけた決まりに縛られていないことです。
動物の形や大きさが現実とは違っていても、画面全体から生きものが動き出すような力が感じられる。
丸木美術館も、スマさんの動物には豊かな表情やしぐさがあり、花には画面からあふれるほどの生命力があると紹介しています。
俊さんからたくさん描いて疲れないかと尋ねられたスマさんは、畑の草取りと比べれば遊んでいるようなものだという趣旨で答えたと伝えられています。
何十年も身体を使って働いてきた女性にとって、絵を描くことは苦労ではなく、新しく見つけた楽しみだったことが伝わります。
75歳で展覧会へ、76歳で日本美術院展に初入選
スマさんの絵は、家族だけが楽しむ作品では終わりませんでした。
1950年、75歳のときに第4回女流画家協会展と広島県美術展へ出品します。
翌1951年には「母猫」「川のかに」などを女流画家協会展へ出品して中央画材賞を受賞。さらに再興第36回日本美術院展に「餌」「野」「海」が初入選しました。
絵を始めてわずか数年です。
1952年には広島・福屋で個展を開催。
1953年には再興第38回院展で「巣」「きのこ」が入選し、日本美術院の院友に推挙されました。同じ年には広島と東京でも個展を開いています。
専門教育を受けていない70代の女性が突然絵を始め、数年で中央の美術界から評価される。
現在でも珍しい経歴ですが、1950年代にはさらに異例の存在でした。
「原爆の図」の丸木位里は長男、丸木俊は義理の娘
「丸木」という名字を聞いて、「原爆の図」を思い浮かべる人も少なくありません。
共同制作「原爆の図」で知られる丸木位里さんは、スマさんの長男です。
位里さんの妻・丸木俊さんも画家で、夫婦は原爆投下後の広島を目撃し、その記憶や被爆者の証言をもとに「原爆の図」を制作しました。
その位里・俊夫妻が、スマさんへ絵を描くことを勧めました。
ただし、親子だから同じ画風になったわけではありません。
位里・俊夫妻の「原爆の図」が人間の苦しみや戦争の惨禍を正面から描く一方、スマさんの代表的な作品には花や鳥、動物、野菜などが色鮮やかに登場します。
一見するとまったく違います。
それでも丸木美術館は、両者は根の部分でつながっていると説明しています。
明るい絵の裏側に原爆の記憶が残っている
スマさんは原爆を体験していながら、作品の多くで悲惨な場面を描き続けたわけではありません。
しかし、原爆の記憶が消えていたわけでもありません。
スマさんは「ピカは人がおとさにゃおちてこん」という言葉を残しています。
また、原爆を直接題材にした数少ない作品も残されています。
2026年開催の滋賀県立美術館「丸木スマ展」では、2017年に発見された「ピカドン」なども取り上げられ、生命力あふれる絵の背景にあった戦争体験へも光を当てています。
原爆を経験し、夫を亡くした女性が、その数年後から花や動物、生きものを大量に描き始めた。
スマさんの作品を見るとき、この人生の流れは重要な背景になります。
最晩年の大作「簪」に生涯が集約された
スマさんの代表作の一つが、1955年に制作された「簪(かんざし)」です。
猫、犬、鳥、花などが画面いっぱいに描かれた大型作品で、亡くなる前年の作品にあたります。
丸木俊さんは後に、この絵をスマさんの生涯を表すような作品として紹介しました。
題材となっているのは、スマさんが長年の暮らしの中で身近に接してきたものばかりです。
船宿、農作業、子育て、広島での被爆、夫との死別。
そうした長い人生の後に73歳から絵筆を握り、最後には身の回りの生命が一枚の画面へ集まるような作品へ到達しました。
81歳で死去するまで700点以上を制作
スマさんは1956年11月14日、東京都練馬区の自宅で81歳で亡くなりました。
絵を本格的に始めてから約8年。
その間に制作した作品は700点を超えます。
亡くなった翌1957年には、東京、名古屋、徳島、広島で遺作展が開かれました。
その後も作品の評価は続き、1981年にはNHK「日曜美術館」で「私と丸木スマ」が放送されています。
2008年には「新日曜美術館」で娘の大道あやさんとともに取り上げられ、2026年、再び「日曜美術館」でその人生と作品が紹介されます。
亡くなって70年が経つ現在も、新しい観客へ作品が紹介され続けている画家です。
2026年は滋賀県立美術館で過去最大規模の丸木スマ展
テレビでスマさんの作品に興味を持った人にとって、現在ちょうど実物を見ることのできる大きな機会があります。
滋賀県立美術館では、2026年9月11日から11月23日まで「丸木スマ展 73歳からのアーティスト」を開催しています。
初期から晩年までの作品と関係資料、約130点を紹介する過去最大規模の展覧会です。
開催情報は次の通りです。
- 展覧会名:丸木スマ展 73歳からのアーティスト
- 会場:滋賀県立美術館 展示室3
- 住所:滋賀県大津市瀬田南大萱町1740-1
- 会期:2026年9月11日~11月23日
- 開館時間:9:30~17:00
- 最終入場:16:30
- 一般:1,200円
- 高校生・大学生:800円
- 小学生・中学生:600円
- 未就学児:無料
10月13日は休館日となるほか、会期中には展示替えもあります。最新情報は滋賀県立美術館で確認できます。
原爆の図 丸木美術館は2027年5月まで長期休館中
丸木スマさんの作品を所蔵・紹介している重要な施設が、埼玉県東松山市の「原爆の図 丸木美術館」です。
ただし2026年10月現在、美術館は全館改修工事のため長期休館しています。
リニューアルオープンは2027年5月5日ごろを予定しています。
休館中も作品の館外展示などは続いているため、スマさんの作品を見たい場合は、今回の滋賀県立美術館をはじめとする巡回・貸出展覧会を確認するのが現実的です。
まとめ
丸木スマさんは1875年に広島で生まれ、船宿や農業を営みながら家族を支えてきた女性です。
70歳で原爆を経験し、翌年には夫と死別。
その後、長男の丸木位里さんと義理の娘・丸木俊さんに勧められ、73歳になって初めて本格的に絵を描き始めました。
わずか数年で日本美術院展へ入選し、78歳ごろには院友へ推挙。81歳で亡くなるまでに700点を超える作品を残しています。
長い人生のほとんどを画家ではない女性として生き、70代になって突然開いた創作の世界。
そして原爆と夫の死を経験した後にも、花や鳥、猫、魚といった生命を鮮やかに描き続けたことが、丸木スマという画家の大きな特徴です。
2026年10月4日の「日曜美術館」は、「何歳からでも始められる」という単純な成功物語だけではなく、73歳で絵筆を握るまでにスマさんが生きた70年以上の時間も含めて、その作品を見る回となります。
参考リンク


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