神田日勝の絶筆「馬」×八木亜希子|描かれなかった脚と生きた証
2025年5月17日に放送された『新美の巨人たち』では、北海道十勝の大地に生き、農民として画家として歩んだ神田日勝の最後の作品「馬(絶筆・未完)」が紹介されました。出演した八木亜希子さんが、神田の人生や作品の背景をたどりながら、未完の絵が放つ強烈な存在感とその理由を深く掘り下げていきました。絵の中に描かれなかった後ろ脚、使われた道具、ベニヤという下地、そして神田の生き様——すべてに意味がありました。
十勝の開拓地に育った少年が絵筆を手にするまで
神田日勝は昭和12年(1937年)、東京都練馬区で生まれました。父親が「日本が戦争に勝つように」との願いを込めて名付けた「日勝」。その運命は、敗戦によって大きく変わります。昭和20年、神田一家は北海道十勝の鹿追町に開拓民として移住。日勝はこのとき7歳でした。農業の経験がなかった家族は、原野に等しい地にたどり着き、熊笹や石ころに覆われた土地を、馬の力を借りて耕す日々を送りました。
そんな厳しい生活の中でも、兄の影響で油絵に出会い、絵を描くようになります。中学卒業後は当然のように農業に従事しましたが、絵を描く手を止めることはありませんでした。19歳のとき、はじめて展覧会に出展。絵の題材は、馬喰に騙されて買わされた、やせ細って動けなくなった馬でした。その馬はただの動物ではなく、生活と切り離せない「労働の相棒」だったのです。
神田日勝記念美術館で出会う「馬(絶筆・未完)」
鹿追町にある神田日勝記念美術館は、1993年に開館。有志の努力によって建てられ、今では彼の代表作の数々が展示されています。その一番奥に展示されているのが、縦183センチ、横204センチという大作『馬(絶筆・未完)』です。
この作品は一見すると、まるで別世界から現れたかのような不思議な浮遊感をまとっています。緻密に描かれた馬の毛並みは、湿り気や温かさ、鼓動までも感じさせます。まなざしは潤み、体にはこすれたように毛が薄くなっている部分があり、実在する馬を前にしたかのような生命感が宿っているのです。にもかかわらず、後ろ脚は描かれていません。輪郭すら途中で終わっているのです。
筆ではなくナイフ、キャンバスではなくベニヤ板
この作品が特別なのは、その描き方にもあります。使用されたのは筆ではなくペインティングナイフ。絵の具を盛り上げ、彫刻のように毛並みを削り出すような表現は、ナイフだからこそできる技法です。さらに下地には、通常使われるキャンバスではなく、安価で硬いベニヤ板が使用されています。
日勝は、このベニヤ板にナイフの先で絵の具をのせながら、端からブロック状に描いていく独自の描法を行っていました。一筆ごとに手応えを感じながら、細かく整えるように毛並みを作っていく。農作業と同じように、絵にも誠実に向き合っていたのです。
なぜ馬を描き続けたのか?神田日勝と輓馬の絆
神田が馬を描き続けた理由は、開拓の現場に欠かせなかった輓馬(ばんば)の存在がありました。サラブレッドの2倍もの体重があるたくましい馬たちは、畑を耕し、重い荷物を運ぶために「胴引き」という装具を身に着けていました。これがこすれて毛が薄くなり、皮膚や血管が見えるほどになります。
日勝はその姿を丁寧に描写しました。見栄えを整えるのではなく、現実を描くことこそが誇りであり、労働の証と感じていたのです。彼が描いたのは、畑で働く馬ではなく、納屋の中で静かにたたずむ姿。労働から解放され、休む馬の姿に、感謝と敬意を込めていたことが伝わります。
絵に爆発する色、そして鬼気迫る沈黙
20代後半から30代にかけて、神田は表現の幅を広げていきます。生活の道具やゴミ箱、人と動物の構成などを描き、やがて色彩は激しさを増します。日本万国博覧会が開催された1970年には、「室内風景」という作品を発表。新聞紙が貼りつけられた部屋に膝を抱えた男が一人座る構図で、新聞の文字や広告がすべてナイフで描かれているという、圧倒的な描写力を見せつけました。
その男の無表情な目には、社会の中に取り残されていく不安と孤独がにじんでいます。ナイフで削り出されたその空間には、静けさと鬼気迫る沈黙が漂っていました。
「馬(絶筆・未完)」が遺したもの
「馬(絶筆・未完)」を描いていた最中、神田日勝は体調を崩し、敗血症によって32歳でこの世を去りました。最後まで絵と向き合い、描きかけのまま、後ろ脚だけを残して筆を置くことになったのです。幼い息子が「お父さんがまだアトリエにいる気がした」と話したというエピソードは、未完の絵に宿る魂を感じさせるものです。
また、八木亜希子さんは番組の中で、未完成であるこの馬の絵に、描かれなかった部分を想像し、補おうとする私たちの心が宿っていると語っていました。だからこそ、この絵は多くの人の記憶に残り続けているのです。
番組情報
『新美の巨人たち』
2025年5月17日(土)22:00〜22:30
テレビ東京(Ch.7)
展示情報
神田日勝記念美術館
北海道河東郡鹿追町東町3丁目2番地
※展示内容・開館日などは公式サイトをご確認ください。
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