41年目に実現した遺族とボーイング元事故調査責任者の対話
日航123便事故には、事故原因とは別に「なぜ不適切な修理が行われたのか」という疑問が残り続けています。『クローズアップ現代(なぜ真相は埋もれたのか〜日航機墜落41年の新証言〜)(2026年8月26日)』で重要になるのが、遺族と当時のボーイング側事故調査責任者との対話です。41年間埋まらなかった修理ミスの背景と、ボーイングが2026年に行った異例の対応まで掘り下げます。
この記事でわかること
- 美谷島邦子さんとジョン・パーヴィス氏の関係
- パーヴィス氏が日航123便事故で担った役割
- ボーイングが修理ミスの説明を削除した経緯
- 41年後にも「なぜ」が重要視される理由
美谷島邦子さんが対話した相手はジョン・パーヴィス氏
2026年7月、日航123便事故で9歳の次男・健さんを亡くした美谷島邦子さんと、事故当時ボーイング側の調査を率いたジョン・パーヴィス氏(John Purvis)との対話が実現しました。
事故原因を追った側と、家族を失い原因究明を求め続けてきた側が、41年を経て直接向き合ったことになります。
美谷島さんは、遺族でつくる「8・12連絡会」の事務局長として長く活動してきました。
健さんは小学3年生で、初めての一人旅として123便に搭乗していました。美谷島さんはその後、遺族同士をつなぐ活動だけでなく、航空安全や命の大切さを伝える講演などを続けています。
今回の対話が特別なのは、パーヴィス氏が単にボーイングに勤務していた技術者ではないからです。
事故の核心に近い場所で原因究明に携わった人物でした。
ジョン・パーヴィス氏はボーイング事故調査部門を率いた人物
ジョン・パーヴィス氏は、40年以上にわたりボーイングに勤務し、そのうち17年間は商用航空機の事故調査部門を率いた人物です。
1985年の日航123便事故では、ボーイング側の主任事故調査担当者を務めました。米国家運輸安全委員会側の主任調査担当だったロン・シュリーデ氏とともに原因究明に携わっています。
事故発生直後にはテロや爆発物による事故の可能性も考えられていました。
しかし調査が進むにつれ、事故機が1978年に起こしたしりもち事故と、その後に行われた後部圧力隔壁の修理へ焦点が移っていきます。
パーヴィス氏自身、後年この事故について、調査に約2年間にわたって関わり、自らの事故調査人生を形作った事故の1つだったと振り返っています。
41年後の対話という出来事が重く感じられるのは、事故について外側から研究してきた人物ではなく、まさに調査チームの中心にいた人物だからです。
1978年の修理で接合板が2つに分けられた
事故機JA8119は1985年の墜落事故より7年前、1978年6月2日に大阪国際空港でしりもち事故を起こしました。
機体後部が大きく損傷し、製造元であるボーイングのチームが修理を担当します。
特に重要だったのが後部圧力隔壁です。
修理では隔壁の上半分と交換した下半分をつなぐため、「スプライスプレート」と呼ばれる接合板を取り付ける設計になっていました。
ところが実際には、本来1枚で取り付ける接合板が分割されました。
その結果、本来複数のリベット列へ分散するはずだった力が、一部では実質1列に集中する状態になりました。事故調査では、この部分の強度が正規の修理の場合のおよそ70%に低下したと推定されています。
ここまでは事故原因として広く知られている部分です。
問題は、その先にあります。
なぜ設計図とは異なる施工をしたのかです。
FAAには「取り付けにくいため接合板を切断した」と記されている
米連邦航空局の航空事故教材には、この点についてかなり具体的な記述があります。
接合板は取り付けるのが難しく、作業員が収まりやすくするために切断して2つに分けたと説明されています。現在公開されているページにも、接合板の設置が難しかったことと、分割して取り付けた経緯が記されています。
さらに興味深いのは、当時ボーイング側の調査を率いたパーヴィス氏らが2010年に発表した事故調査の回顧でも、ほぼ同じ経緯が説明されていることです。
接合板を構造部分へ収めるため修理チームが切断し、その結果、本来2列で荷重を受ける部分が1列になったと記されています。
つまり、
修理方法を間違えたこと
だけでなく、
取り付け上の問題を解決しようとして設計から外れた施工を行った
という一歩手前の事情が、米国側の資料には記されているのです。
日本の事故調査報告書は修理ミスの背景まで断定しなかった
1987年に公表された事故調査報告書でも、不適切な修理が行われたことは詳細に分析されています。
一方、なぜその方法で作業されたのかという人間の判断まで、明確な形では結論づけられませんでした。
日本側の事故調査担当者が、実際に修理を担当したボーイングの作業員から十分な事情を聞けなかったことも、その後繰り返し問題として取り上げられています。
運輸安全委員会も2025年7月の会見で、当時の航空事故調査委員会がボーイングの修理作業者から話を聞けなかった問題について質問を受けています。
事故原因の大きな流れは分かっていても、
「なぜその行動を取ったのか」
というヒューマンファクターの部分が残ったわけです。
事故調査の初期には刑事捜査との難しい関係もあった
パーヴィス氏とともに事故を調査した米国家運輸安全委員会側のロン・シュリーデ氏は、後年の回顧で当時の調査状況について詳しく記しています。
事故直後は犯罪の可能性も考えられていたため、刑事捜査の影響が大きく、米国側の安全調査チームが事故現場や情報へ速やかにアクセスすることが難しかったとしています。
コックピットボイスレコーダーやフライトデータレコーダーの情報、事故現場へのアクセスにも影響があったというのです。
一方、運輸安全委員会は、事故調査と犯罪捜査はそれぞれ異なる目的で独立して行われるもので、どちらか一方が優先されるものではないという立場を示しています。
この違いは非常に重要です。
刑事捜査は、犯罪や刑事責任の有無を明らかにするために行われます。
航空事故調査は、事故原因を明らかにし、次の事故を防ぐことが最大の目的です。
同じ証言でも、刑事責任を問うために聞くのか、「なぜその判断をしたのか」を安全対策に生かすために聞くのかで意味が変わります。
ボーイングは2024年に修理ミスの背景を自社サイトへ掲載した
さらに事態が動いたのが事故から約40年後です。
ボーイングは2024年9月に航空関係者向けの安全教育コンテンツを開設し、日航123便事故について、接合板が取り付けにくかったため分割されたという趣旨の説明を掲載しました。
内容は米連邦航空局の航空安全教材を踏まえたものでした。
この記述が2025年に報じられると、日本航空と国土交通省がボーイング側へ詳細な説明を求めることになります。
事故から約40年間、国内で大きな空白となっていた「なぜ修理ミスが起こったのか」に関わる記述が、製造メーカー自身のページにも現れたためです。
ところが、その後さらに意外な展開を迎えます。
ボーイングは記述を削除し日本航空へ謝罪した
2026年8月、ボーイングが自社サイトから修理ミスの背景に関する記述を削除していたことが報じられました。
日本航空によると、ボーイングからはFAAの表現を引用したことで混乱を招いたことについて書面と対面で謝罪があった一方、修理ミスの背景についてそれ以上の説明は示されていないとされています。
ボーイング側は、誤解を避ける目的で自社ページから該当部分を削除し、FAAのページへのリンクを掲載する形に変更しました。
ただし重要なのは、FAA側の記述まで消えたわけではないことです。
FAAのページには現在も、接合板が取り付けにくく、作業員が切断して2つに分けたとの説明があります。ページは2025年9月3日更新となっています。
このため、「ボーイングが記述を削除した=その内容が否定された」と単純に受け取ることはできません。
運輸安全委員会は事故原因を変える情報ではないとしている
米国側の資料に日本の事故調査報告書より詳しい修理経緯が書かれていることについて、運輸安全委員会は2025年に見解を示しています。
FAAの記述は後部圧力隔壁の修理が誤った方法で行われた理由の一部にあたるものの、1987年の事故調査報告書で示された事故原因とは異ならないとしています。
そのため事故調査を再開するための「新しく、かつ重大な証拠」には該当しないという判断です。
ここは、日航123便事故を考えるうえで大切な区別です。
問題になっているのは、
「圧力隔壁の修理ミスという事故原因が間違っているのか」
という話ではありません。
公式な事故原因につながった修理ミスが、なぜ発生したのかという一段深い部分です。
「誰がミスしたか」ではなく「なぜミスできたか」が再発防止につながる
航空事故では、作業者1人のミスを特定しただけでは十分な再発防止になりません。
今回の修理を考えても、
- なぜ設計どおりに取り付けにくかったのか
- 設計変更の承認はどのように扱われたのか
- なぜ完成検査で見抜けなかったのか
- 作業記録や管理体制に問題はなかったのか
- 同じ判断を別の整備現場で防ぐには何を変えるべきか
まで掘り下げる必要があります。
実際、不適切な接合部はシーラントで覆われたため、修理後には正常な施工と外見上区別しにくい状態でした。事故調査報告書でも、修理作業と検査を含む管理方法に十分でない部分があったとされています。
つまり、「作業者が間違えた」で終えると、本当の安全対策に必要な部分を取り逃がします。
41年目の対話は事故原因を書き換えるためではない
美谷島邦子さんとジョン・パーヴィス氏の対話が意味を持つのも、ここにあります。
事故から41年が過ぎても、公式の事故原因とは別に、事故へ至る過程には埋めるべき空白が残っています。
パーヴィス氏自身、事故から25年後に発表した論考の最後で、誤った修理によって事故が起きたことへの深い遺憾と、犠牲者・遺族への哀悼の意を記しています。
そして今度は、資料の中ではなく、家族を失った遺族と向き合うところまで時間が進みました。
「事故原因は何だったのか」だけでなく、なぜ事故を防げなかったのかを最後まで掘り下げること。
日航123便事故が41年後の今も問いかけているのは、その姿勢なのだといえます。
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