16歳で渡った大島を「第二のふるさと」と呼ぶまで
NHK総合「Dearにっぽん『この島が 第二のふるさと〜国立療養所 香川・大島〜』」(2026年9月6日放送)は、国立療養所大島青松園で74年間暮らしてきた野村宏さんを追う。高知県土佐清水市で育った野村さんは、16歳でハンセン病と診断され、家族と引き離された。90歳になった2026年、故郷で初めて公に語った半生と、悲痛な歴史を持つ大島への思いをたどる。
この記事でわかること
- 野村宏さんが16歳で大島青松園へ入所した経緯
- 入所者が担わされた患者作業と当時の生活
- 妻との結婚、強制中絶、国賠訴訟への参加
- 90歳で故郷・土佐清水市の壇上に立った背景
野村宏さんは大島青松園入所者自治会の副会長
野村宏さんは高知県土佐清水市出身。2026年に90歳を迎えたハンセン病回復者で、現在は大島青松園入所者自治会の副会長を務めている。
高知県が制作した啓発冊子の本人証言によると、大島青松園へ入所したのは1952年6月19日、16歳のときだった。
中学3年生のころ、太ももに栗まんじゅうほどの大きさのあざができ、卒業後にハンセン病と診断された。自宅を訪れた県の担当者からは、治療薬プロミンがあるため、1年から1年半ほどで帰れるという趣旨の説明を受けたという。
野村さんは短期間の治療だと思って故郷を離れた。しかし、当時の隔離政策のもとでは、自分の意思だけで療養所を出て元の生活へ戻ることはできなかった。
母親は野村さんを乗せたバスを追いかけた
出発の日、兄たちは野村さんが旅行へ行くと思っていた。一方、当時50歳ほどだった母親は、大島へ行けば簡単には帰れないことを知っていた。
野村さんを乗せたバスの後ろを、母親が髪を振り乱しながら追いかけてきたという光景は、70年以上たっても消えない記憶となった。
当時は、大島へ連れて行かれた患者が注射で殺される、一度入ったら帰れないといったうわさも流れていた。事実とは異なるうわさも含まれていたが、それほど療養所が社会から閉ざされ、家族にも実態が伝わっていなかったことがわかる。
24畳の部屋で12人が共同生活していた
入所したころの大島青松園には約700人が暮らしていた。野村さんの証言では、24畳の部屋に12人が収容され、1人分の生活空間は畳2枚ほどしかなかった。
職員は52人、看護師は18人ほどで、園内の生活を職員だけで支えることはできなかった。そのため、比較的症状の軽い入所者が「患者作業」として、さまざまな仕事を担った。
主な患者作業には次のようなものがあった。
- 食事作りと各居住棟への配達
- 道路の補修
- 下水や汚水の運搬
- 重症者の介護や看護
- 火葬用の薪集め
- ひつぎや義足、生活道具の製作
プロミンの注射を毎日受ける人が約500人いた時期にも、看護師だけでは対応できず、入所者が治療助手として駆り出された。
注射器や包帯は十分になく、注射針を砥石で研いで再使用したり、使用済みの包帯やガーゼを洗って煮沸消毒したりしていたという。末梢神経の障害で痛みや熱さを感じにくい人が無理な作業を続け、傷を悪化させることもあった。
20歳で結婚するも子どもを持つことは許されなかった
野村さんは1957年、園内で知り合った女性と結婚した。
しかし、新婚生活と呼べる環境ではなかった。21畳の部屋で4組の夫婦が共同生活し、部屋を仕切るカーテンを買うお金さえなかったという。
やがて妻が妊娠したものの、療養所では入所者に断種や中絶を強いる運用が行われており、妻も中絶手術を受けさせられた。野村さんはその悔しさを誰にも見せることができず、山の頂上まで行って一人で泣いたと証言している。
夫婦は、園内に年齢の近い人が少ないなか、互いに支え合って生きるために一緒になった。野村さんが大島を「第二のふるさと」と呼ぶ背景には、隔離政策を肯定する思いではなく、妻や仲間と生き抜いてきた時間がある。
大島青松園から56人が国賠訴訟に参加した
治療薬が普及し、ハンセン病が治る病気になった後も、国の隔離政策は続いた。「らい予防法」が廃止されたのは1996年である。
1998年、九州の入所者13人が、長年の隔離は憲法に反するとして国を提訴した。大島青松園でも野村さんを含む56人が原告として立ち上がった。
野村さんは原告と弁護団をつなぐ連絡員を務めた。2001年5月11日、熊本地裁が原告側の訴えを認める判決を出すと、野村さんたちは国に控訴しないよう求めた。本人証言によれば、5月21日と22日には首相官邸前で座り込みも行った。
小泉純一郎首相が控訴断念を決めたことで判決は確定した。野村さんは、長年絶対的なものに見えていた国の法律を、自分たちの声によって変えられたことに大きな喜びを感じたと振り返っている。
「Nさんの人生・大島七十年」のモデルになった
野村さんの人生は、絵本作家・田島征三さんによる作品「『Nさんの人生・大島七十年』―木製便器の部屋―」の題材にもなった。
大島が瀬戸内国際芸術祭の会場となったことで、かつて閉ざされていた島へ多くの人が訪れるようになった。野村さんも来島者と交流し、自分たちがここでどのように暮らしてきたのかを伝えている。
ただし、大島は観光地である前に、今も入所者が生活する場所である。野村さんが望んでいるのは同情だけではなく、正しい知識を持ち、一人ひとりの人生として受け止めてもらうことだ。
90歳で故郷・土佐清水市の壇上に立った
2026年5月9日、野村さんは故郷の土佐清水市へ向かい、市立中央公民館で初めて公に半生を語った。
地元の元中学校教諭らが約10年にわたって働きかけ、ようやく実現した講演会だった。定員200人を超える人が集まり、別室で中継が行われるほどの関心を集めた。
大島青松園社会交流会館の学芸員・都谷禎子さんが隣に付き添い、野村さんは16歳で故郷を離れた日、園内生活、患者作業、妻との経験などを語った。
高齢となった野村さんにとっては「最初で最後」の覚悟で臨んだ故郷での講演だった。入所者が少なくなるなか、自分たちがいなくなった後も、大島の歴史と強制隔離の教訓を残したいという思いが込められている。
実用情報
- 氏名:野村宏(のむら・ひろし)
- 年齢:90歳(2026年の番組放送時)
- 出身地:高知県土佐清水市
- 大島青松園入所日:1952年6月19日
- 入所時の年齢:16歳
- 現在の立場:大島青松園入所者自治会副会長
- 故郷での講演日:2026年5月9日
- 講演会場:土佐清水市立中央公民館
- 番組名:Dearにっぽん「この島が 第二のふるさと〜国立療養所 香川・大島〜」
- 放送日時:2026年9月6日午前8時25分〜8時50分
- 放送局:NHK総合
- 語り:吉岡里帆
まとめ
野村宏さんは16歳でハンセン病と診断され、短期間で帰れるという説明を信じて大島青松園へ向かった。しかし、待っていたのは自由の制限された共同生活と、入所者自身が園を支える患者作業だった。
妻との間に生まれるはずだった子どもを失い、国賠訴訟では隔離政策の責任を問い続けた。それでも大島を「第二のふるさと」と呼ぶのは、そこで妻や仲間と支え合い、生き抜いてきた74年間があるからだ。
90歳で故郷の壇上に立った野村さんの言葉は、ハンセン病問題を過去の出来事として終わらせず、病気や属性によって人の自由を奪う社会を二度と生まないための証言となっている。
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