宇野千代が雑誌の倒産から再起し、1200年の桜を守るまで
2026年10月12日放送のNHK総合『熱談プレイバック』では、作家・宇野千代の98年にわたる人生が紹介されます。
小説『色ざんげ』『おはん』で知られる宇野千代ですが、その活動は文学だけにとどまりません。39歳で女性向けファッション雑誌『スタイル』を創刊し、62歳で会社の倒産を経験。その後も着物の仕事を続け、73歳では岐阜県の名木「淡墨桜」を守る活動に力を注ぎました。
晩年には自伝『生きて行く私』が100万部を超えるベストセラーとなります。
倒産によって多額の負債を抱えながらも、文学、着物、自然保護へと活動を広げていった宇野千代。その人生には、失敗で終わらなかった仕事の歴史があります。
この記事でわかること
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宇野千代が創刊した雑誌『スタイル』と1959年の倒産
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負債8千数百万円から着物の仕事を続けた歩み
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73歳で取り組んだ岐阜県・淡墨桜の保護活動
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85歳からの自伝『生きて行く私』と晩年の活躍
62歳で『スタイル』が倒産、負債は8千数百万円

出典: 朝ドラ《ブラッサム》のモデル・宇野千代の波瀾万丈な人生、一生現役で稼いだ作家が88歳を前に語った”いまが一番幸せ” 3ページ目 | ライフ | 東洋経済オンライン
宇野千代が設立したスタイル社は、1959年に倒産しました。当時の宇野千代は62歳。会社には8千数百万円もの負債が残りました。
『スタイル』は1936年に創刊された女性向けファッション雑誌です。戦時中にいったん発行が途絶えたものの、1946年に復刊し、戦後の女性たちから大きな支持を集めました。
しかし、1950年代に入ると大手出版社が同じ分野に進出。競合誌の増加によって売り上げが落ち込み、税務調査で脱税が摘発されたことも経営を圧迫しました。
1957年には会社更生法の適用を受けましたが、経営を立て直すことはできず、1959年に倒産。宇野千代は銀座の土地や別荘、住まいなどの財産を失うことになります。
その後は着物を売る仕事を続け、夫の作家・北原武夫も執筆による収入を返済に充てました。借金は1964年に全額返済され、同年、2人は離婚しています。
事業の成功と破綻の両方を経験したことは、小説家としてだけでは語り尽くせない宇野千代の人生を象徴する出来事です。
73歳で岐阜県の淡墨桜を訪れ、保護活動に立ち上がる
宇野千代は1970年、73歳のときに岐阜県根尾村、現在の本巣市にある「淡墨の桜」を訪れました。
きっかけは文芸評論家の小林秀雄から、樹齢1200年と伝えられる大きな桜の話を聞いたことでした。
ところが、実際に目にしたのは、1959年の伊勢湾台風で傷ついた老木の姿でした。
宇野千代は、この桜を守るため岐阜県知事に働きかけ、自ら募金活動にも取り組みます。こうした保護への働きかけは、淡墨桜の再生を支える取り組みの一つとなりました。
桜を鑑賞して終わるのではなく、その木を残すために行動したことが、宇野千代と淡墨桜の深いつながりです。
この経験は文学にも結びつき、1975年には小説『薄墨の桜』を刊行しています。
現在も岐阜県本巣市に残る淡墨桜は、宇野千代の晩年を語るうえで欠かせない存在です。
1936年に女性ファッション雑誌『スタイル』を創刊
『スタイル』が生まれたのは1936年6月。宇野千代が39歳のときでした。
当時、宇野千代はすでに小説家として活躍していましたが、関心は文学だけでなく、衣服や暮らし、美しいものを楽しむ文化にも広がっていました。
自らスタイル社を設立し、女性の装いや生活に関する情報を届ける雑誌の編集・発行を始めます。
創刊期の『スタイル』は、ファッションを中心にしながら、文学や美術にも接点を持つ雑誌でした。宇野千代の周囲にいた作家や芸術家との交流も、その誌面づくりを支えています。
この雑誌の創刊をきっかけに知り合ったのが、当時新聞記者だった北原武夫です。
北原はその後、小説家となり、宇野千代と1939年に結婚。雑誌の編集にも関わるようになりました。
やがて戦争による統制が強まり、スタイル社は1944年に解散します。しかし、宇野千代は戦後の1946年に『スタイル』を復刊させました。
物資が不足する時代を経て、おしゃれを楽しむ文化が再び広がるなか、復刊した雑誌は大きな人気を得ます。
一度閉じた雑誌を復活させ、その後の競争激化で失うまでの歩みには、日本の女性雑誌が発展していく時代の変化も重なっています。
小説『色ざんげ』『おはん』で築いた作家としての実績
宇野千代は1897年11月28日、現在の山口県岩国市に生まれました。
幼い頃に実母を亡くし、継母や弟妹と暮らしながら成長。岩国高等女学校を卒業した後は、小学校の代用教員などを経験しています。
文学の世界に足を踏み入れる大きなきっかけとなったのは1921年です。
小説『脂粉の顔』が時事新報の懸賞小説で一等に入選し、作家としての活動が本格的に始まりました。
その後、1933年に連載を開始した『色ざんげ』が注目を集めます。男女の関係や揺れ動く感情を描く作品によって、宇野千代は独自の文学世界を築いていきました。
さらに1957年には代表作『おはん』を刊行します。
『おはん』は、妻と愛人の間で揺れる男性の心情を描いた作品で、野間文芸賞を受賞。1958年には女流文学者賞も受賞しています。
注目したいのは、こうした文学上の成果が、スタイル社の経営危機と同じ時期に生まれていたことです。
1957年は会社更生法の適用を受けた年でもありました。仕事や生活に大きな負担を抱えながら、小説家として高い評価を受ける作品を完成させていたのです。
倒産後も着物の仕事を続け、1967年に株式会社宇野千代を設立
宇野千代にとって、着物は自分の美意識を表現する大切な仕事でした。
雑誌『スタイル』で女性の装いに関わってきた経験は、その後の着物デザインにもつながります。
1957年には、アメリカのシアトルをはじめ、ロサンゼルス、シカゴ、ニューヨークなどで自身がデザインした着物のショーを開催しました。
この海外での活動は、スタイル社が経営危機にあった時期に行われています。
会社の倒産後も宇野千代は着物の販売を続け、1967年には株式会社宇野千代を設立しました。
同じ年には栃木県の那須に仕事場となる家を建て、執筆や着物の活動を続けています。
かつて雑誌を通して伝えていた「おしゃれ」を、今度は自らデザインした着物によって表現するようになった宇野千代。
出版事業の失敗が、その後の創作活動の終わりにはならなかったことがわかります。
淡墨桜との出会いが1975年の小説『薄墨の桜』につながった
宇野千代が淡墨桜を訪れた1970年は、スタイル社倒産から11年が過ぎた年でした。
着物の事業を続けながら小説を書き、さらに老木の保護にまで活動を広げていきます。
淡墨桜は、岐阜県本巣市の根尾谷に残る歴史ある桜です。
宇野千代は桜の傷んだ姿を見た後、保存に向けて行政への働きかけや募金活動を行いました。
その体験は、単なる自然保護の活動だけにはとどまりませんでした。
1975年に刊行した小説『薄墨の桜』では、桜との関わりが文学作品へと結びついています。
『スタイル』では美しさを雑誌で伝え、着物では布と模様で表現し、淡墨桜では実際に美しいものを守るために行動しました。
それぞれの仕事は異なりますが、宇野千代が長年取り組んできた活動のつながりを感じられる出来事です。
85歳からの自伝『生きて行く私』が100万部を超えるベストセラーに
宇野千代は1982年、85歳で自伝的エッセイ『生きて行く私』の新聞連載を始めました。
連載は1983年7月まで続き、その後、単行本として刊行されます。
作品で振り返ったのは、故郷・岩国での少女時代、家族との暮らし、作家たちとの交流、恋愛や仕事を通じた人生の出来事です。
宇野千代は4度の結婚と離婚を経験しています。そうした私生活も含め、自分が生きてきた時間を文章にまとめました。
『生きて行く私』は100万部を超えるベストセラーとなり、宇野千代の名前を幅広い世代に知らしめます。
また、1982年には菊池寛賞を受賞。1990年には故郷の岩国市名誉市民となり、文化功労者としても顕彰されました。
宇野千代は1996年6月10日、98歳で亡くなりました。
20代で作家活動を始め、30代で雑誌を創刊し、60代で大きな事業の失敗を経験。70代で桜の保護に取り組み、80代で自伝がベストセラーになるという、長い創作人生を送りました。
実用情報・宇野千代の作品と淡墨桜
主な出来事
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1897年:山口県岩国市に生まれる
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1921年:『脂粉の顔』で作家としての活動を開始
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1933年:『色ざんげ』連載開始
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1936年:ファッション雑誌『スタイル』創刊
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1946年:『スタイル』復刊
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1957年:『おはん』で野間文芸賞受賞
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1959年:スタイル社倒産
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1967年:株式会社宇野千代設立
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1970年:岐阜県の淡墨桜を訪れ、保護活動に尽力
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1975年:『薄墨の桜』刊行
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1983年:『生きて行く私』刊行
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1996年:98歳で逝去
淡墨桜の所在地
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名称:根尾谷淡墨ザクラ
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所在地:岐阜県本巣市根尾板所
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特徴:樹齢1500余年と伝えられる国指定天然記念物
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宇野千代との関係:1970年に訪問し、保存に向けた働きかけや募金活動を行った
放送情報
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番組:熱談プレイバック「恋とおしゃれと桜・作家宇野千代の痛快人生」
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放送日:2026年10月12日(月)
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放送時間:23:00〜23:27
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放送局:NHK総合
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出演:田辺いちか
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放送形態:再放送
まとめ
宇野千代は、作家として数々の作品を残しただけでなく、ファッション雑誌の創刊、着物事業、淡墨桜の保護など、幅広い活動に取り組んだ人物です。
1959年にはスタイル社が倒産し、8千数百万円の負債を抱えました。それでも着物の仕事を続け、1967年に新たな会社を設立します。
さらに73歳で岐阜県の淡墨桜を守る活動に携わり、85歳からの自伝『生きて行く私』は100万部を超えるベストセラーとなりました。
宇野千代の人生で印象的なのは、仕事の分野を変えながらも、文学や美しいものへの関心を持ち続けたことです。
62歳の倒産も、その後の長い創作人生の一つの出来事でした。98歳まで続いた活動の歩みを知ると、『スタイル』の倒産と淡墨桜の再生が、宇野千代の人生を読み解く重要な節目だったことが見えてきます。
参考リンク
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