西本圭介の歩みと家族、そして「3丁目のたこボール」
世界を舞台に演奏してきたベーシストであり、音楽教育にも長く携わってきた西本圭介さん。『イマナマ!「広島超大家族」(2026年9月4日)』では、西本さんと家族の歩みが取り上げられます。音楽家としての華やかな経歴だけでなく、妻・西本聖子さんが育てた店、3人の子ども、2026年に家族を襲った大きな転機まで知ると、西本さんが現在向き合っているものが見えてきます。
この記事でわかること
- 西本圭介さんが22歳からプロを目指した経緯
- 欧州11カ国19公演などベーシストとしての実績
- 妻・西本聖子さんと3人の子どもたち
- 「3丁目のたこボール」を第三者へ託そうとしている理由
世界で活動してきたテクニカル・ロック・ベーシスト

(出典:ロックベーシスト 西本圭介)
西本圭介さんは1970年広島市生まれのテクニカル・ロック・ベーシストです。
大阪スクールオブミュージック専門学校、アメリカ・ハリウッドのMusicians Institute BITで学び、卒業後はプロとして活動。高度な演奏技術を持つギタリストのサポートを中心にキャリアを重ねてきました。
大きな実績の1つが、ディープ・パープルで知られるグレン・ヒューズと、レインボーなどで活躍したジョー・リン・ターナーによるプロジェクトの欧州ツアーです。
西本さんはオープニングアクトとして同行し、ヨーロッパ11カ国19公演を経験しました。
さらに、KoRnのドラマーであるレイ・ルジアーの映像作品に、世界的ベーシストのビリー・シーンらと参加。日本国内だけで活動してきたベーシストではなく、海外の第一線で活躍するミュージシャンと共演してきた経歴を持っています。
現在も広島でプライベートのベースレッスンを展開しており、演奏技術を次の世代へ伝える活動を続けています。
22歳からプロを目指した転機と欧州11カ国19公演
西本さんは最初から音楽一本で進んできたわけではありません。
高校時代にはデザイナーを目指して絵画教室へ通い、地元の大学へ進学。その後大学を中退し、会社員として働いた時期を経て、1992年、22歳で大阪スクールオブミュージック専門学校へ入学しました。
ここが人生を大きく変えた転機です。
一般的には大学卒業や就職を意識する年代で、改めて「プロミュージシャンになる」という道を選びました。
その後はアメリカでも音楽を学び、1999年にはKelly Simonz’s Blind Faithへ加入。2000年には専門誌「ベース・マガジン」のハイテクニック特集でも取り上げられました。
そして2002年、グレン・ヒューズとジョー・リン・ターナーのプロジェクトに同行し、11カ国19公演の欧州ツアーへ。22歳から本格的にプロを目指した青年が、約10年後には海外ツアーに参加するまでになったことになります。
演奏家として活動する一方で、早い時期から音楽教育の仕事にも関わってきました。ステージだけにキャリアを限定しなかったことが、その後の音楽学校運営や人材育成にもつながっています。
音楽学校の副校長として次世代を育てる現在
西本さんにはもう1つ重要な顔があります。音楽教育者です。
1996年から福岡スクールオブミュージックでミュージシャン育成に携わり、校舎の立ち上げや機材選定、講師選考なども経験しました。
その後も名古屋などの音楽専門学校で学校運営や教育に関わり、長年にわたって若いミュージシャンを育てています。
東京スクールオブミュージック専門学校 渋谷では副校長を務め、西本さん自身のベース教室でも、音楽教育に25年以上携わってきたことが紹介されています。
興味深いのは、西本さんの教育への考え方が、自身の3人の子どもを育てた経験とも結びついていることです。
学校で生徒だけを見るのではなく、その後ろにいる家族にも目を向ける。西本さんは過去に、学校側にとって多数いる学生の1人であっても、親にとってはかけがえのない1人だという趣旨の思いを記しています。
ただし2026年夏は状況が大きく変わりました。
妻・聖子さんが亡くなった後、西本さんは東京での仕事を休職し、広島で相続や事業整理などに向き合っています。東京へ戻り以前と同じ働き方を続けるのかを含め、これからの生活そのものを考える時期に入っています。
妻・西本聖子さんと「3丁目のたこボール」

(出典:3丁目のたこボール – ふんわ〜り、とろ〜り 大阪の味は“ぶち”うめえ! レトロなワーゲンバスのたこ焼き屋さん 【ケータリングカー・移動販売車】)
西本家を語るうえで欠かせないのが、妻の西本聖子(きよこ)さんと、広島県廿日市市で営んでいた「3丁目のたこボール」です。
赤いレトロなワーゲンバスを使った移動販売から始まったたこ焼き店で、2010年にスタートしました。
当時は現在ほどキッチンカーが一般的ではなく、西本さんによると、古いワーゲンバスを使った移動販売車自体が広島では珍しい存在でした。
店を中心になって切り盛りしてきたのが聖子さんです。
宮園の拠点だけでなく各地のイベントなどにも出店し、地域とのつながりを広げてきました。店の車や看板、ロゴなどには家族も関わり、子どもたちが小さい頃には手書きの看板を作るなど、文字どおり家族とともに成長してきた店でもありました。
ベーシストとして国内外を飛び回る夫と、広島で店を育てる妻。
仕事の形はまったく違いますが、それぞれが自分の好きな道を選んできた夫婦だったことが、西本家の子育てにもつながっています。
それぞれの道へ進んだ3人の子どもたち
西本圭介さんと聖子さんには、長男・次男・長女の3人の子どもがいます。
子どもたちは親の音楽やたこ焼き店をそのまま継ぐのではなく、それぞれ別の道を選びました。
西本さんが2026年に紹介した現在の進路は、
- 長男:プロの照明技師
- 次男:地域おこし協力隊
- 長女:医学部で医師を目指している
というものです。
長男は専門学校卒業後、ミュージックビデオなどに関わる照明エンジニアの道へ。
次男は高校時代から勉強に力を入れて大学へ進学し、その後は地域に関わる仕事へ進みました。
長女は医学部へ進学し、2026年には医学部6年生として医師を目指しています。
3人とも両親と同じ仕事を選んでいない点も印象的です。
西本さんは、親が進路を押し付けるのではなく、子ども自身が決めた目標を達成することを大切にしてきたと振り返っています。
この家族のあり方は、後に「3丁目のたこボール」をどうするのかという大きな決断にも影響することになります。
2026年6月に家族を襲った突然の出来事
家族の日常は、2026年6月15日に大きく変わりました。
妻の聖子さんが広島市西区の西広島バイパスで交通事故に遭い、搬送先の病院で亡くなりました。聖子さんは「3丁目のたこボール」のオーナー店長として、店を1人で運営していました。
当時、西本さんは東京で音楽学校の仕事をしていました。
連絡を受けた後、北海道、神奈川、高知にいた3人の子どもたちにも知らせ、家族は広島へ集まりました。
突然家族を失う悲しみに加え、西本さんには相続、契約の解約や名義変更、事故に関する手続き、広島の自宅の管理、そして聖子さんが営んでいた店の整理まで、一度に多くの問題が残されました。
そのため東京の仕事を休職し、広島で生活しながら1つずつ対応を進めています。
単に仕事へ復帰するかどうかだけではありません。
長年聖子さんが守ってきた広島の家をどうするのか、東京と広島を往復する生活を続けられるのか、自分自身がこれからどんな人生を送りたいのか。
56歳を迎えた西本さんにとって、生活そのものを組み立て直す大きな転機になっています。
「3丁目のたこボール」を未来へ残すために選んだ道
聖子さんが亡くなった後、多くの人が気にかけたのが「3丁目のたこボールはどうなるのか」ということでした。
西本さん自身が店を継ぐ選択肢もありました。
3人の子どもの誰かが後継者になる道も考えられます。
しかし家族が選んだのは、親族が無理に店を引き継ぐ方法ではありませんでした。
長男には照明技師、次男には地域おこし協力隊、長女には医師という、それぞれがすでに選んだ人生があります。
西本さん自身も飲食店経営を本業にする考えはなく、子どもたちの人生を尊重し、店を継ぐことを求めないという判断をしています。
一方で、聖子さんが長年育ててきた名前や店そのものを、ただ消してしまう道だけを選んだわけでもありません。
そこで始めたのが、「3丁目のたこボール」のブランドを受け継いでくれる人の募集です。
店を再開するという告知ではなく、聖子さんが築いたブランドを未来へつなぐため、第三者へのブランド譲渡という形を選びました。実際に店を引き継ぎたい、ワーゲンバスを譲ってほしいという申し出は、国内だけでなく海外からも届いたとされています。
家族だからといって同じ仕事を継がなければならないわけではない。
一方で、大切な人が作ったものを完全に消してしまう必要もない。
家族それぞれの人生を守りながら、聖子さんが築いたものを別の誰かへ託す。
それが西本家が選んだ「3丁目のたこボール」を未来へ残す形です。
西本圭介さんの歩みを見ていくと、22歳で自分の道を選び直した音楽家としての人生と、子どもたち自身にもそれぞれの道を歩ませようとする父親としての考え方がつながっていることが分かります。
そして2026年、大きな転機を迎えた今も、過去をそのまま再現するのではなく、これからの生活に合った新しい形を探し続けています。


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