十勝の農業王国は、依田勉三と晩成社の挑戦から始まった
2026年10月10日放送の「ブラタモリ 北海道・十勝」では、日本有数の食料供給地となった十勝を旅し、広大な畑が生まれた歴史をたどります。
その原点にいるのが、静岡県から北海道へ渡った依田勉三(よだ・べんぞう)と民間開拓団「晩成社」です。1883年、帯広へ入植したのは13戸27人。しかし現在の農業王国につながるまでには、晩成社の苦闘だけでなく、富山・石川・福井など北陸から移住した人々の存在がありました。
この記事でわかること
- 依田勉三と晩成社が十勝へ入植した経緯
- 13戸27人の開拓が苦難の連続だった理由
- 福井を含む北陸からの移住者と十勝農業の関係
- 小さな開拓団から現在の大規模農業へつながった流れ
依田勉三と晩成社は1883年に13戸27人で帯広へ入植

出典:帯広市「第三章 開拓使・札幌県時代」・晩成社移民団写真掲載
十勝内陸部の本格的な開拓で大きな役割を果たしたのが「晩成社」です。
中心人物の依田勉三は現在の静岡県賀茂郡松崎町の出身。1881年に十勝沿岸部を視察した後、北海道への移住に動き、1882年1月に晩成社が組織されました。
依田勉三と鈴木銃太郎は十勝内陸部を歩き、同年7月、オベリベリを入植地に決定します。
そして1883年4月、依田勉三ら13戸27人が横浜港を出発。5月に現在の帯広へ到着し、開墾を始めました。
晩成社は政府が送り込んだ屯田兵ではありません。民間の人々が自ら組織をつくり、北海道で大規模な農業経営を目指した開拓団でした。
十勝では屯田兵による開拓ではなく、こうした民間移民が中心となったこと自体が大きな特徴です。
入植した場所にはすでにアイヌの人々が暮らしていた
十勝開拓を語るうえで忘れてはいけないのが、晩成社が無人の土地へ初めて人を連れてきたわけではないことです。
帯広市史によると、晩成社が入植した一帯には、当時すでにアイヌの人々が十数戸、約50人暮らしていました。ほかにも和人が生活していました。
つまり「十勝の開拓の始まり」とは、人がいなかった土地へ初めて入ったという意味ではなく、現在の帯広につながる民間による本格的な農業開拓が動き出した転機として捉えるのが正確です。
依田勉三たちはここから農地を広げ、農業や牧畜を事業として成立させようとしました。
晩成社の開拓は成功続きではなく、冷害や害虫に苦しんだ
現在の十勝には、地平線まで続くような広大な畑があります。
しかし、晩成社が最初から大農場を順調に経営できたわけではありません。
帯広市の資料には、冷害に加え、バッタやネズミによる食害などに苦しめられたことが記録されています。晩成社は農業だけでなく、牛肉やバターの生産などにも挑戦しました。
それでも下帯広村での開拓は思うように進みませんでした。
1886年には依田勉三が新たな事業を求めて当縁村オイカマナイへ移り、牧畜業を開始。晩成社内部でも人が別々の場所へ移るようになります。
1893年には、当初の晩成社の人々は下帯広村でわずか3戸にまで減りました。
十勝農業の歴史は、27人が入植してそのまま成功した物語ではありません。
失敗しても別の作物や牧畜、加工へ挑戦し続けたことが、その後の十勝産業につながっていきました。
十勝農業を大きく広げたのは富山・石川・福井などからの移住者
ここで、十勝が「農業王国」へ変わっていく第2段階が始まります。
1896年ごろから十勝の土地が移民へ本格的に開放されると、各地から多くの人が移住しました。
特に大きな役割を果たしたのが、
- 富山県
- 石川県
- 福井県
- 岐阜県
などからやって来た人々です。
帯広市史では、晩成社を帯広最初の開拓移民団としたうえで、十勝農業の基盤形成は1896年ごろからの北陸3県と岐阜県などからの入植によって進んだと整理されています。
福井と北海道・十勝という、一見すると遠く離れた地域がつながる理由がここにあります。
初期の移住者たちは川沿いの比較的肥沃な土地へ入りましたが、そこには大きな樹木があり、伐採した後には根株が残ります。
機械化された現在とは違い、開墾は人力や馬の力が中心でした。川沿いでは洪水にも襲われ、住居も草ぶきの小屋などから始まる厳しい生活でした。
広いだけでは農業王国になれなかった十勝の大地
十勝平野を見ると、「土地が広かったから大規模農業になった」と考えたくなります。
ところが、十勝の台地には火山灰が厚く堆積した土地も多く、農業に最初から理想的だったわけではありません。
十勝総合振興局は、開拓が川沿いから周辺の台地へ広がり、痩せた火山灰土などの不利な条件を克服しながら現在の農業基盤が築かれたとしています。
その後は土地改良、排水整備、農業技術の導入、機械化などが積み重ねられました。
つまり現在の十勝の風景は、「広い土地が最初から畑だった」のではありません。
依田勉三らの入植、北陸をはじめとする各地からの移住、土地改良、農業技術の進歩という長い積み重ねによって生まれたものです。
現在の十勝は1経営体あたり45.7haの大規模農業
開拓開始から140年以上が経過した現在、十勝は日本有数の大規模農業地帯になっています。
十勝総合振興局の資料では、2024年の十勝の耕地面積は約25万4510ha。北海道全体の耕地面積のおよそ22.4%を十勝が占めています。
さらに2020年時点の1経営体あたりの経営耕地面積は45.7haで、都府県平均の20.8倍です。
小麦、豆類、てん菜、馬鈴しょ、乳製品など、日本の食卓を支える農畜産物がここから送り出されています。
1883年に13戸27人が踏み出した一歩と、その後に続いた数多くの移住者たちの開拓が、現在の巨大な食料生産地へつながったことになります。
依田勉三と晩成社の足跡を帯広で見る場所
帯広では現在も、依田勉三や晩成社の歴史をたどることができます。
中島公園には依田勉三の銅像が建てられています。
- 所在地:北海道帯広市東3〜4条南2丁目
- 園内:依田勉三銅像、碑
- 帯広市中心部からも立ち寄りやすい場所
また、帯広百年記念館には依田勉三に関係する資料が収蔵されています。
依田勉三が日々の出来事や晩成社の事業を記した自筆日記「備忘」や、北海道へ向けて出発する前日に記した「留別の詩」も帯広市指定文化財となっています。
まとめ
十勝農業の原点には、依田勉三と晩成社13戸27人の挑戦がありました。
ただし、現在の巨大な農業地帯は晩成社だけによって完成したものではありません。
晩成社が先駆けとなり、その後、富山・石川・福井など北陸地方をはじめ各地から移住した人々が農地を広げ、厳しい気候や火山灰土、洪水などと向き合ってきました。
さらに土地改良と機械化が進み、現在では1経営体あたり45.7haという規模で農業が営まれています。
「ブラタモリ 北海道・十勝」で目にする広大な畑は、単なる北海道の雄大な自然ではありません。
13戸27人から始まり、全国各地から集まった人々が何世代にもわたって作り上げた風景なのです。
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