料理と文章にたどり着くまで何度も変わった麻生要一郎の人生
『ネコメンタリー 猫も、杓子も。(麻生要一郎とチョビ)(2026年8月21日)』に登場する麻生要一郎さんは、料理家・文筆家として食卓や暮らしを発信しています。しかし、最初から料理の道を目指していたわけではありません。建設会社の跡取り、新島での宿、母親の看病、高齢姉妹との養子縁組と、何度も人生の方向が変わった末に現在の仕事へつながっています。
この記事でわかること
- 麻生要一郎さんが料理家・文筆家になるまでの経緯
- 30歳で家業を離れ、新島で宿を始めた転機
- 母親の看病と高齢姉妹との養子縁組
- 自伝『酸いも、甘いも。』へつながった現在の活動
麻生要一郎は料理と文章を仕事にする料理家・文筆家
麻生要一郎さんは1977年、茨城県水戸市生まれ。
現在は料理家・文筆家として、お弁当のケータリング、雑誌でのレシピ提案、食や暮らしについての執筆など幅広く活動しています。家庭的でやさしい味わいの料理が、仕事の大きな軸になっています。
2020年には『僕の献立 本日もお疲れ様でした』を刊行。その後も『僕のいたわり飯』『365 僕のたべもの日記』など、料理と文章を組み合わせた著書を発表してきました。
2026年1月には、初めて人生そのものを振り返った自伝&食エッセイ『酸いも、甘いも。あの人がいた食卓 1977-2025』を刊行しています。
料理家という肩書だけを見ると、料理を学び、そのまま職業にした人物のようにも見えます。
ところが麻生さんの場合、現在の仕事へ至るまでにいくつもの大きな転機がありました。
特に重要なのが、
建設会社
↓
家業を離れる
↓
新島の宿
↓
母親の看病
↓
東京で新しい家族と出会う
↓
お弁当の仕事
↓
料理家・文筆家
という流れです。
料理は最初に決めた職業というより、人生のさまざまな場面で人とつながるために作り続けた結果、仕事になっていったものなのです。
建設会社の跡取りとして育った若い頃
麻生さんは、もともと建設会社の跡取りとして育ちました。
現在の「麻生要一郎」という名前になる前の人生には、家業を背負う1人息子としての立場がありました。
父親が亡くなったのは麻生さんが19歳の頃。
学生時代に父を亡くしたことで、将来は自分が家業を引き継ぐという流れが強くなり、実際に建設会社の仕事へ入ります。
しかし、家業の仕事は自分には合わないと感じていました。
「跡取りだから継ぐ」という周囲から見れば自然な人生と、自分が本当に進みたい人生との間にズレが生まれていきます。
父を亡くした後には祖父の養子にもなっており、家や会社との関係は単純な仕事以上に重いものでした。
だからこそ、家業を離れることは単純な転職ではありません。
生まれたときから用意されていた人生から離れる決断でもありました。
家業を離れて人生を変えた30歳の転機
大きな転機が訪れたのは30歳の頃です。
麻生さんは建設会社を離れます。
その後、自分らしい生き方を模索する中で友人たちとカフェを始め、さらに大きく人生を変える出会いがありました。8月21日の放送内容でも、30歳で家業を離れたことが半生の重要な節目として紹介されています。
麻生さんが出会ったのが、東京R不動産の運営にも携わっていた林厚見さんでした。
林さんから持ちかけられたのが、東京の離島・新島で宿をやらないかという話です。
麻生さんは「わざわざ訪れる島なら、自分が必要とされる何かを試せる」と感じ、この誘いを受けました。
建設会社の跡取りとして用意された道から離れた人が、今度は東京の島で宿を始める。
かなり大きな方向転換です。
しかし、この新島での経験こそ、後の料理家・麻生要一郎につながる重要な時間になりました。
新島で7年間続けた宿の仕事
新島で始めたのが「カフェ+宿 saro(サロー)」です。
もともと民宿だった建物を改装し、宿泊客を迎える場所としてスタートしました。
ここで麻生さんは料理を担当します。
料理店で修業してきた料理人としてではなく、宿を訪れる人や一緒に働くスタッフへ食べてもらうために料理を作る生活でした。
毎日20人ほどの宿泊客やスタッフの食事を作る日もあり、試行錯誤する中で評判になったのが特別に飾った料理ではなく家庭料理でした。
宿ではフレンチトーストも名物になります。
そしてもう1つ大きかったのが、料理を通じて人と暮らす経験です。
宿に集まったスタッフは、編集者やイラストレーターなど、それまで互いに接点がなかった人たちでした。
同じ場所で寝起きし、同じ食卓を囲む。
人と集団で暮らすことが得意ではなかった麻生さんにとって、この生活はそれまで経験したことのないものでした。
宿は約7年間続きました。
現在の麻生さんの料理が「誰かと食卓を囲むこと」と強く結びついている背景には、新島で毎日のように誰かのために料理を作った経験があります。
愛猫チョビと出会ったのも新島でした。
母の看病が再び人生を変えた
新島での生活にも終わりが訪れます。
2014年、建物の事情からsaroを閉じることになりました。
ほぼ同じ時期、茨城県に暮らしていた母親の病気が分かります。
麻生さんは再び人生の予定を変え、故郷へ戻りました。
母親を看病し、最期を看取ります。
料理はこの時期にも重要な存在でした。
麻生さんが料理をする原点の1つには、父を亡くした後、家業の重責を背負っていた母親のために夕食を作った経験があります。
母親の好みに合わせようと何度も料理を作り、その積み重ねが「誰かのために料理する」という現在のスタイルにつながっていきました。
新島では宿泊客やスタッフへ。
故郷では母親へ。
料理を仕事にする以前から、麻生さんにとって料理は「食べるものを作る」だけでなく、人との関係をつなぐものになっていました。
母親を看取った後、麻生さんはチョビと一緒に東京へ移ります。
ここから、人生は再び予想外の方向へ動き始めます。
料理が現在の仕事につながった経緯
東京で暮らし始めた麻生さんは、最初から「料理家として成功しよう」と計画して仕事を始めたわけではありません。
きっかけは友人から、
撮影現場へ弁当を作って持ってきてほしい、
と頼まれたことでした。
作った弁当を現場で食べた人から別の依頼が入り、そこから口コミで仕事がつながっていきます。麻生さん自身も、屋号すらないまま突然お弁当作りが仕事になったと振り返っています。
この流れは、新島時代とよく似ています。
自分から「料理家になる」と宣言したのではなく、人に料理を作る→喜ばれる→別の人から頼まれるという積み重ねから仕事になっています。
やがて家庭的なお弁当やケータリングが評判となり、雑誌へのレシピ提供にも活動が広がりました。
さらに、自身の経験や暮らしについて文章を書くようになり、文筆家としても活動します。
料理と文章は別々の仕事にも見えます。
しかし麻生さんの場合、どちらも「日々の暮らしや人との記憶を残す」という部分でつながっています。
料理について書けば、その料理を食べた家族や友人の記憶までよみがえる。
現在の麻生さんの作品に食卓の話が多いのは、料理そのものより、料理の周りにいた人たちも含めて伝えているからです。
「麻生要一郎」という名前と新しい家族
現在の麻生要一郎という名前にも、人生を大きく変えた出来事があります。
母親を看取った後、東京で住まいを探していた麻生さんは、千駄ヶ谷周辺のマンションへ引っ越しました。
そのマンションの大家だったのが、高齢の姉妹です。
愛猫チョビをきっかけに交流が深まり、食事をしたり買い物を手伝ったりするようになります。
そして姉妹から、
「養子にならない?」
と提案されました。
一般的にはかなり驚く話ですが、麻生さんにとって養子縁組は初めてではありませんでした。
父親が亡くなった後にも祖父の養子になった経験があり、戸籍上の関係と実際の家族の気持ちは必ずしも同じではないと感じていたためです。
姉妹が終活のため墓を購入した際には、妹から「麻生要一郎になりなさい」と促され、その後正式に養子になります。
姉妹が所有していたマンションも引き継ぎました。
こうして現在の「麻生要一郎」という名前が生まれました。
血縁だけでは説明できない新しい家族です。
そして麻生さんの周囲には、姉妹だけではなく、友人や仕事仲間、パートナーなど、食卓を囲む人たちが集まるようになります。
新島で経験した「同じ食卓を囲むことで家族のようになる暮らし」が、形を変えて東京でも続いているところが印象的です。
自伝『酸いも、甘いも。』につながる現在
麻生さんが歩いてきた人生をまとめたのが、2026年1月14日に発売された『酸いも、甘いも。あの人がいた食卓 1977-2025』です。
価格は1,980円。
麻生さんにとって初の自伝&食エッセイとなっています。
本の構成を見ると、
建設会社の跡取り
父の早逝
家業継承の放棄
新島の宿
母の看取り
千駄ヶ谷への転居
「麻生要一郎」となるまで
高齢姉妹の息子としての生活
という人生の大きな転機が、食べ物の記憶と一緒に描かれています。
祖母の炒飯。
母と作ったちらし寿司。
新島の宿で人気だったフレンチトースト。
高齢姉妹との思い出につながる料理。
人生を年表として並べるのではなく、その場にあった料理から人や出来事を思い出していくのが特徴です。
現在も麻生さんは料理家・作家として、ケータリングやレシピ提案、エッセイ執筆などを続けています。
建設会社を離れた30歳のときには、現在の自分を具体的に想像していたわけではなかったでしょう。
新島へ渡ることも、宿で料理を作ることも、母親を看取ることも、高齢姉妹の養子になることも、最初から決められた計画ではありませんでした。
それでも、それぞれの場所で人のために料理を作り、一緒に食卓を囲んできた経験がつながり、今の仕事になっています。
麻生要一郎さんは「料理家になる道を選んだ人」というより、何度も人生の方向を変えながら、最後に料理と言葉が仕事として残った人と見ると、その半生がより分かりやすくなります。
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