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【NNNドキュメント’25】特攻のための特攻〜熊本から飛び立った義烈空挺隊〜健軍飛行場に眠る銭湯と菩薩像の物語|2025年11月10日

NNNドキュメント

熊本から飛び立った若者たちの真実「特攻のための特攻」って何?

戦争のドキュメンタリーというと、つい遠い昔の話のように感じてしまう人も多いでしょう。でも、今回放送される『NNNドキュメント’25「特攻のための特攻〜熊本から飛び立った義烈空挺隊〜」』は、そうした距離感を静かに揺さぶります。
熊本から沖縄へ――太平洋戦争末期、113人の若者が「特攻隊を成功させるための特攻」という極めて過酷な作戦に挑みました。この記事では、彼らがなぜそんな任務を担い、どんな思いで空へ向かったのかを、わかりやすくひもといていきます。

もしあなたが「戦争を知る」と聞いて少し構えてしまうなら、今日はほんの少しだけ視点を変えてみてください。これは「過去の悲劇」ではなく、「今に続く記憶」の物語です。

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義烈空挺隊とは?熊本から沖縄へ飛び立った“もう一つの特攻隊”

義烈空挺隊は、1944年(昭和19年)11月ごろに旧日本陸軍の空挺部隊を改編して誕生しました。部隊の正式名称は「陸軍挺進第1連隊 義烈空挺隊」。司令官は中佐 加藤建夫、本部は熊本の健軍飛行場に置かれました。
彼らの目的は、沖縄戦において米軍が支配する飛行場を破壊し、特攻機が出撃しやすい環境を作ること。つまり「他の特攻隊を守るために、自らが犠牲となる」部隊だったのです。

使われたのは、爆撃機や輸送機など大型の航空機。そこに十数人ずつの兵士が乗り込み、嘉手納飛行場読谷飛行場など敵地の滑走路に強行着陸。着陸後は手榴弾や爆薬を使って、格納庫・燃料タンク・航空機などを破壊する任務でした。
しかし当然ながら、敵地に着陸した時点で生還の可能性はほぼゼロ。まさに「片道切符の任務」でした。

背景にあった“戦局の絶望”

1945年春、日本の戦況はすでに極限状態にありました。サイパン・フィリピンが陥落し、沖縄に米軍が上陸。日本本土への空襲が激化し、戦争は最終局面へと進んでいました。
その中で陸軍は、「少数の兵力で大きな効果を上げる作戦」として、空挺部隊を活用することを決めます。
義烈空挺隊の誕生は、そんな“追い詰められた状況”の中から生まれた最後の希望でもありました。

彼らは「爆弾を抱えて空へ」というよりも、「基地に突入し、敵を壊して仲間を守る」という“地上戦型の特攻”。他の特攻と違うのは、単に体当たりするのではなく、「着陸して戦う」という点です。そのため、銃撃や白兵戦の訓練も徹底されていました。

出撃前夜――笑顔で別れた若者たち

1945年5月23日、出撃を翌日に控えた義烈空挺隊の隊員たちは、熊本の健軍町周辺で最後の夜を過ごしました。中には銭湯へ行って体を清め、仲間と静かに語り合ったという証言も残っています。
彼らがよく通ったという元銭湯は、今も熊本市内に残っており、戦後、その女主人が隊員たちを供養するために菩薩像を建立したと伝えられています。
「笑って出ていった若者たちが、二度と帰ってこなかった」――そんな話が地域の人々の記憶に今も残っています。

この銭湯の跡地は戦後長らく人々の祈りの場となり、今では静かな住宅街の中にその面影だけが残されています。記録には残っていなくても、地域に語り継がれた小さな祈りの物語。それこそが、義烈空挺隊の“もう一つの記録”なのかもしれません。

1945年5月24日、沖縄へ――「成功よりも使命を」

出撃命令は1945年5月24日午前。12機の輸送機に隊員14人ずつが乗り込み、熊本から飛び立ちました。
途中、悪天候や故障により4機が引き返し、最終的に8機が沖縄本島へと向かいました。目標は嘉手納・読谷の2つの飛行場。米軍機の集中砲火を受けながらも、数機が胴体着陸に成功し、基地内で爆破活動を行ったと記録されています。

作戦の結果、米軍側にも被害は出ましたが、日本側の犠牲はあまりにも大きく、隊員113名が戦死。任務は成功とは言えないまま終わりました。しかし、仲間を守るために命を懸けたという信念は、今も語り継がれています。

熊本に残る“静かな祈り”

義烈空挺隊が出撃した健軍飛行場跡地には、現在「義烈空挺隊之碑」が建立されています。この碑はかつて旧飛行場跡の一角に建てられ、のちに陸上自衛隊健軍駐屯地内へ移設されました。碑には、出撃した隊員たちの名前とともに「義烈空挺隊 戦没者之霊」と刻まれています。

毎年5月24日には地元関係者や遺族が集まり、静かに慰霊祭が行われます。語り継ぐ人が少なくなる中で、この場所は今も戦争の現実を伝える“生きた記念碑”です。
また、熊本市の公式資料でも義烈空挺隊について詳しく記されています。市は戦争遺跡の一つとして健軍飛行場跡を保存し、平和学習の場として紹介しています。

義烈空挺隊が残した問い

義烈空挺隊の作戦は、戦局を変えることはできませんでした。しかし、その存在は「命の重さ」「戦争がもたらす極限の決断」を考えるうえで欠かせないものです。
彼らを単に“英雄”とするのではなく、「なぜ、そこまでしなければならなかったのか」という視点で見つめ直すことが、平和を考える第一歩になります。

そして、今も熊本の地で続く慰霊の祈りや、語り部の活動は、戦争を風化させないための“地域の力”そのものです。
戦後80年を迎える今だからこそ、私たちはもう一度立ち止まり、義烈空挺隊の若者たちが見上げた空を想像してみる必要があります。

まとめ

この記事のポイントは以下の3つです。
義烈空挺隊は、特攻隊を支援するために熊本から出撃した旧陸軍の特殊部隊である。
・1945年5月24日、沖縄の米軍飛行場を攻撃する作戦で113名が戦死した。
・熊本市の健軍飛行場跡地義烈空挺隊之碑、そして地域に伝わる銭湯と菩薩像の物語が今も記憶をつないでいる。

放送後は、番組で紹介される当時の資料や遺族の証言をもとに、さらに詳しい内容を追記していきます。
義烈空挺隊の歴史を知ることは、戦争を語ることではなく、平和を“考え続けること”にほかなりません。

参考・出典リンク

・熊本市公式サイト「戦争遺跡・文化遺産ネットワーク」健軍飛行場跡と義烈空挺隊の記録
https://www.city.kumamoto.jp/kiji00311960/5_11960_361025_up_ZZCCBU41.pdf

・沖縄県遺族連合会公式サイト「義烈空挺隊の記録」
https://okinawa-yokuyukai.org/data/rekisi_004.html

・熊本県民テレビ(KKT)公式サイト「NNNドキュメント特集・義烈空挺隊」
https://www.kkt.jp/program/kkt_program/2025/07/-104.html

・公益財団法人 特攻隊戦没者慰霊顕彰会「義烈空挺隊之碑」紹介ページ
https://tokkotai.or.jp/contents/p3560/

・Wikipedia「義烈空挺隊」
https://ja.wikipedia.org/wiki/義烈空挺隊

・Never Forget 1945 ブログ「1945年5月24日 義烈空挺隊出撃」
https://neverforget1945.hatenablog.com/entry/1945/05/24/000000

・熊本市東区 健軍飛行場跡地周辺・空華之塔、飛燕特攻之碑、南方航空輸送部戦没者慰霊碑に関する現地資料(熊本市史・戦争関連保存会資料)

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